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評者◆対談 巽孝之×芝田文乃
新訳で味わう半世紀前のSF――本邦初訳を含むコレクションを、ぜひ手にとって読んでほしい
インヴィンシブル
スタニスワフ・レム著、関口時正訳
No.3520 ・ 2021年11月20日




■この九月、国書刊行会から「スタニスワフ・レム・コレクション 第Ⅱ期」の刊行がはじまった。二〇一七年に完結した「スタニスワフ・レム・コレクション 第Ⅰ期」の理念を引き継ぎ、本邦初訳を多く含む全6巻+別巻1を予定している。第一回配本はこれまで『砂漠の惑星』の邦題で読まれてきた『インヴィンシブル』。人間と地球外存在との遭遇をテーマに世界のSFの新たな地平を切り拓き、今年で生誕一〇〇年を迎えた作家の記念すべきコレクションをめぐって、今回は第Ⅰ期で翻訳に携わった巽孝之氏と、第Ⅱ期でも「火星からの来訪者」『地球の平和』の翻訳を手がける芝田文乃氏に対談していただいた。(対談日・一〇月二〇日、Zoomにて〔村田優・本紙編集〕)

■レムとクラーク、科学と神学

巽 私自身は英米文学研究を専門にしていますが、かつて一九八〇年前後に構造主義以後の批評理論について研究を始めたときにレムが北米学術誌〈SFスタディーズ〉に寄稿していた構造主義的SF論がとても面白くて、なかでも「メタファンタジア――あるいは未だ見ぬSFのかたち」を、英訳を経た重訳ではあるものの、我が国のSF批評誌〈SFの本〉第五号レム特集号(一九八四年)に訳載したんですね。それを覚えていてくださった監修者の沼野充義氏が、第Ⅰ期のレム・コレクションに、もともと評論集『SFと未来学』(一九七〇年)の一篇であった「メタファンタジア」の拙訳を採用してくださることになり、『高い城・文学エッセイ』に収録されるというので、二〇年ぶりに手を入れたんです。その後、沼野氏のフェイスブックでコレクションの第Ⅱ期が出ると知ったときは驚きましたね。しかも、第一回配本が『インヴィンシブル』(一九六四年)――第Ⅰ期の最大の呼びものがやはり『ソラリス』(一九六一年)だったとすると、第Ⅱ期ではまさにこの、我が国では長く『砂漠の惑星』という訳題で親しまれてきた本作品が――ポーランド語原典から関口時正さんという名手が訳し下ろしたということでは本邦初訳でもありますから――大いに話題を呼ぶのは間違いないでしょう。
芝田 もともとこのレム・コレクションは、八〇年代に早川書房やサンリオSF文庫などから刊行されていたレムの作品が品切れで手に入りづらくなっていたので、それを補完する意味も込めて沼野充義さんがはじめたシリーズなのですが、第Ⅰ期完結後もその状況はあまり変わっていませんでした。まだまだ未訳のレム作品は数多く、旧作も絶版、あるいは訳されてはいてもロシア語からの重訳ということもあり、第Ⅰ期完結直後に新たに第Ⅱ期を企画したのだと思います。
 レム作品において、『ソラリス』と『エデン』、そして本作『インヴィンシブル』はファースト・コンタクト三部作と呼ばれています。かつてはこの三部作が同時に読める時期もありましたが、現在は絶版になっているものもあります。本コレクションで訳し直した『ソラリス』と『インヴィンシブル』も、かつてはロシア語からの重訳でした。しかも、飯田規和さんの日本語訳には、かなり意訳が多い。タイトルからして『ソラリスの陽のもとに』『砂漠の惑星』と変えていますし、章題も違っています――今回『インヴィンシブル』で「一人目」と訳された章題は、『砂漠の惑星』では「最初の犠牲」とネタバレしています(笑)。読者へのわかりやすさを重視したのかもしれませんが、これだと原文から離れ過ぎていますよね。また、飯田さんは原作に登場するロボットの名前「アルクタン」も訳していません。対して、関口時正さんの新訳はいまの私たちが読んでもかなりわかりやすくなっています。たとえば、関口訳で「バリア」「シールド」とすんなり訳されている箇所も、飯田訳では「防御の場」「遮蔽の壁」となっていて、かえってわかりにくかったりします。関口訳は意味的にも視覚的にも解像度がぐっと上がっているので、以前読んだことがあるから……と躊躇せずに、この機会にぜひ新訳を手に取って読み直してほしいですね。
巽 レムよりも四歳ほど年長の作家にイギリスのアーサー・C・クラークがいますが、彼は『幼年期の終わり』(一九五三年)や『2001年宇宙の旅』(一九六八年)といった作品で、思想や哲学を思弁し、人間と超越的なるものを一貫して考える小説を描いたのと同時に、『銀河帝国の崩壊』(一九五三年)やそのリメイク『都市と星』(一九五六年)では徹底した科学技術の未来を構想するハードSFを書いています。こうした構図は、ある程度レムにも当てはまるのではないでしょうか。つまりレムの場合、哲学や思想に彩られた世界観を探究する読者が好む作品として『ソラリス』があり、科学的な論理を突き詰め架空の世界律を構築した作品がこの『インヴィンシブル』となるわけで、その点で読者の好みも分かれるかもしれません。
 ただしクラークの『幼年期の終わり』は基本的にユダヤ=キリスト教の構図に則って超越的なものを否定神学的に描く一方、レムは神学的な問題については小説内で明確に言及しているわけではありません。このあたりは、レムのカフカ論を読んでもわかるとおり、文学的想像力をかき立てるためにあえてソラリスの海の意味を制限せず、むしろ余白を残すような書き方をしている。逆にタルコフスキーは『ソラリス』のなかにあえて宗教的なものを読み込むような映画版を制作してしまったので、レム自身の不興を買ったのでしょう。一方、『インヴィンシブル』になると哲学や思想を描いているわけではなく、サイバネティクスの論理を大いに盛り込んでいます。作中の言葉を使えば、最初は何らかの知性体がつくりだしたロボットがいつの間にか自己増殖しはじめて「生命なき進化」を実現したらどうなるか、そうした状況を徹底したロジックだけで成り立たせたハードSFだと捉えることができます。
芝田 そうですね。ただ、私は『ソラリス』と『インヴィンシブル』がまったく異なる小説だとは考えていなくて、『エデン』も加えてこの三部作全体で、レムは人間とは異なる未知の存在と対峙したときに人間がそれをどう捉え、どのように認知するかを追究したのだと思います。巽さんが指摘されたとおり、『ソラリス』には神学的なことはほとんど書かれていません。ポーランドはもともとカトリック国ですが、レム自身は悲惨な戦争を体験したこともあって無神論者でした。したがって、レムの小説内では超越的な存在としての神は想定していないように思えます。私自身の『ソラリス』の解釈は、人間がソラリスのことを知りたいといくら探索しても、ソラリスから見れば、「自分たちの家族のことさえわからないくせに」と人間たちにカウンターパンチをくらわせる、というものです。ただし、レムは「航星日記・第二十一回の旅」で神学論争をとことん突き詰めつつ持論を展開していますし、最後の長篇小説である『大失敗』では宇宙船に聖職者が乗っています。共産主義時代のポーランドにおいて既存の宗教に関して言説するには相当なバランス感覚と覚悟が必要でした。レムは神学的な問題を考えていなかったわけではなく、作家として何を書くべきか、何を書かないでおくかを、自身のなかでかなり厳しくコントロールしていたのではないでしょうか。
巽 レムとしては、たしかに人間の常識が通用しない絶対的な他者としてのエイリアンを一貫して書いてきたと言えますね。読者によっては、それを限りなく神に近い存在か超人類として捉えたくなるかもしれませんが、作者はそのようには断定していないのです。ちなみに、私自身も、筋や構図の面では『ソラリス』と『インヴィンシブル』は非常に似ていると思っています。どちらも前任者の異変や遭難を受けて、真相解明のために現地に赴く主人公が登場しますから。
 また、『インヴィンシブル』で大活躍するのは虫型のロボットですが、その描かれ方にもSF的な面白さがあります。単純にロボットと言ってしまうと、それがどのような姿かたちをしているか読者には判断できませんが、レムはヒューマノイド型とそうでないロボットを明確に分けていましたし、人類を圧倒するような力を持つ機械種族を生き生きと描いても、その知性に関しては人類より劣ったものと低く見積もっている。これはクラークの『2001年宇宙の旅』に出てくる謎の石板モノリスの定義に非常に近い――モノリスは人類の超進化を助ける媒体であるという点で『幼年期の終わり』のオーバーロードに等しいのですが、ともに宇宙における知性体の階層秩序のうちでは、非常に低いところに位置させられている。レムとクラークはほとんど同世代であるものの、クラークは五〇年代に『幼年期の終わり』『都市と星』といった多くの代表作を書き、一方でレムは六〇年代に『ソラリス』『インヴィンシブル』を書きましたが、この六〇年代という時代になってSFがサイエンス・フィクション(空想科学小説)という従来の意味合いから、スペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)へと理念を拡張させるようになったのは重要です。レムに加えて、フィリップ・K・ディックやJ・G・バラードといった思弁作家たちが活躍した六〇年代こそ、今風に言えばSFを世界文学へと押し上げる第一歩ではなかったでしょうか。

■謎そのものよりその探究の過程への関心

芝田 たしかにレムのSF大作と呼べる小説は六〇年代に数多く執筆されています。いま触れた『ソラリス』『インヴィンシブル』といったシリアスな作品だけでなく、「トルルルとクラパウツィウス」シリーズ、「泰平ヨン」シリーズなどのコミカルなものもこの時期に書かれています。レム・コレクション第Ⅱ期では、旧邦題『宇宙創世記ロボットの旅』は『電脳の歌』として、また「泰平ヨン」シリーズの最後の作品『地球の平和』も刊行予定です。七〇年代に入るとレムは『完全な真空』(七一年)や『虚数』(七三年)といったメタフィクション作品を書くようになりました。つまり、書きたいテーマはたくさんあるけれど、それをすべて長篇小説で表現することはできないと考え、その根本のアイデアを架空の本の書評や序文というかたちで要約するようになったわけです。そして、八〇年代の『地球の平和』と『大失敗』(ともに八七年)を最後に、レムはフィクション自体を書かなくなります。これはポーランドの政治状況と関係するところもありますが、レム自身はコンピュータをはじめとした科学技術の発展によってホラ話が書きにくくなった、と言っています。
 『地球の平和』は一見コミカルな調子で書かれていますが、『インヴィンシブル』と同じく機械の自動進化を扱っています。テーマとしては第I期の『主の変容病院・挑発』に収録されている「二一世紀の兵器システム、あるいは逆さまの進化」(『二一世紀叢書』収録、一九八六年)のアイデア――進化した兵器は小型化・分散化する――とも重なります。『地球の平和』は『インヴィンシブル』と似たテーマを扱っていますが、語り口や展開の仕方が異なります。レムは一見、非常に多岐にわたる小説を書いているようでいて、実のところ根本的な内容や思想は一貫しています。物語の筋も、先ほど巽さんも触れたとおり、冒頭に謎が提示され、後から探索に行くことが多い。また、自主的・積極的に行動するヒーローではなく、いわゆる巻きこまれ型の主人公による物語となっている。そもそもレムは、魅力的なキャラクターを全面に押し出し、起承転結をしっかり考えたエンターテインメント小説の書き手ではなく、初期パラメータを設定した後に書きながら自分の脳内でシミュレーションするという、一種の思考実験のような書き方をしています。
巽 そういう意味では、レムは人間そのものにはあまり興味がなかったのかもしれません。
芝田 そうですね。人間個人の感情や人間同士の争いよりも、未知の謎を解き明かしたいという志向を描きたかったのだと思います。その謎にしても、作中で解明されないことも多々ありますから、謎そのものよりその探究の過程――言い換えれば、これは科学そのものですが――にこそ大きな関心があったのではないでしょうか。
巽 私も『インヴィンシブル』において特に重要な章は「ラウダの仮説」だと考えています。そして、それ自体、必ずしも事件の真相に迫っているものではなく、あくまで単なる仮説に過ぎないのが面白い。
芝田 ですからレム作品においては、当時のアメリカのスペースオペラのようにヒーローが敵の宇宙人を倒したりはしません。敵だと見なしていた相手に、はたして本当に知性があるかどうかもわからないので、たとえ人間に対して攻撃的に見えても無理に争おうとはせず、放っておくのが最適解、となるわけです。
巽 実際、作中で機械種族に次々に襲われて、人間たちの記憶や言語、読み書き能力が失われ、知的には赤ん坊同然の「白紙」と化していく様子などを見ると、機械種族は人間自体をもある種の機械と見なして、そのメカニズムを初期化しているだけのように感じますね。
芝田 しかもそこには何の悪意もない。こうした攻撃は相手への敵対心から起こるのではなく、周囲の状況に巻きこまれて防御的にそう反応せざるを得ないのです。神が一人で宇宙を創ったのではなく、〈宇宙〉とは、人間に無関心な〈遊びの参加者〉たちによる一種の〈遊び〉に過ぎない、という「新しい宇宙創造説」(『完全な真空』収録)にも通じますが、レムは〈宇宙〉の成り立ちに神あるいは何らかの上位存在の意思や意図を介在させません。〈宇宙〉を何らかのルールに則った機械的なシステムとして捉えながら物語をつくりだしているのです。
巽 私が訳した「メタファンタジア」だけでなく、『高い城・文学エッセイ』に収録されている評論を読むと、レムはかなり構造主義に傾倒していたことがわかります。それでいて、構造主義の限界も理解していた。レムの構造主義に対するスタンスとSFに対するスタンスは非常に似ていて、SFに期待しながらもダメなものはダメだとはっきり言っていますし、SFを批評する言語の不在についても痛烈に批判していました。これまでの主流文学が人間中心的なものであったとすると、レムの関心は人間ではなく人類、そしてそれを取り巻く環境のメカニズムとその働きにあったのではないかと思います。
芝田 レムの小説は、主流文学の評論では「人間が描けていない」と評されてしまうのではないでしょうか(笑)。ただ、これは個人の内面で起きる物語に単に興味がなかっただけだと思います。
巽 そうですね。また、個人的にレムの評論を読み直したときに、ナボコフの『ロリータ』を雑種の小説だと評価していたのがとても印象に残りました。ここでも、人間を描くというお題目が主流文学のものであったとすると、ナボコフが大衆文学的な語りをも導入した雑種的なイマジネーションを展開して『ロリータ』を執筆したことをレムは高く評価しています。『完全な真空』『虚数』と『淡い焔』といった架空の作品について扱ったメタフィクションへの指向においても、レムとナボコフは通底しているでしょう。

■レムはジュブナイル作家!?

巽 レム自身の日常生活や作家以外の活動はどうだったのでしょうか。
芝田 レムはあまりテレビなどを見なかったようで、見たとしてもドイツの科学番組ぐらいでした。また、八〇年代後半からはコンピュータ雑誌や科学雑誌にIT時評のようなものを書いたり、ポーランドのカトリック系の週刊紙にコラムを執筆したりしていました――実際はこの時期になると口述筆記となっていましたが。晩年はコメンテーターみたいな扱いになっていて、何かしら科学技術関連のニュースがあるとメディアがコメントを求めにやってきたそうです。実際、レムはドローンやVRやAIといったものを六〇年代には小説に登場させていましたが、レム自身は、自分は何でもかんでも知っている専門家ではない、とこぼしていました。
巽 となると、レムはポーランドにおける国民作家だと言えるかもしれませんね。
芝田 そうですね。レムは国外ではSF作家だと認識されてきましたが、ポーランド国内ではどちらかというとジュブナイル作家だと思われていたと言えます。『ロボット物語』や『宇宙創世記ロボットの旅』は小学校高学年から中学校までの必読書にたびたび選ばれ、ダニエル・ムルスによるイラストの入ったおとぎ話として広く読まれていました。また、かつてはSFというジャンル自体、あまり大人が読むものとして考えられておらず、面白いロボットのお話を書く作家だと見なされていたところもあります。ワルシャワの科学博物館には『宇宙創世記ロボットの旅』に出てくる電遊詩人の等身大人形があって、子供たちやその親に世代を超えて親しまれていることが窺えます。
巽 日本だと王道を行く本格的かつ思弁的SF作家という印象が強かったので、それはとても意外ですね。
芝田 どうしてそういう状況になっているかというと、やはりポーランド語からの翻訳が難しいことが挙げられます。タルコフスキーの映画のおかげで『ソラリス』は約五十の言語に訳されましたが、ロボットのおとぎ話の笑いを翻訳するのは難しいのです。その電遊詩人による詩にしても、たとえば頭韻がCに統一された詩を各国語に訳すのはものすごく大変ですし、他の作品にも結構ダジャレが多くて、これを日本語に置き換えるのは至難の業です。レム・コレクション第Ⅱ期で『宇宙創世記ロボットの旅』は『電脳の歌』と改題されますが、この作品には言葉遊びがふんだんに盛り込まれています。そうした作品の面白さやユーモアをロシア語からの重訳で伝えるのは相当に難しい……ただ、ポーランド語と日本語も文法的にかけ離れた言語ですので、翻訳が難しいことに変わりはありません。レムはまた、ポーランドの語りものや伝説、寓話を近未来の話に置き換えたり、造語を多用したりしているため、背景知識を追う必要もあります。
 一方で、レム研究は非常に盛んになっています。今年はレム生誕一〇〇年という記念の年にあたり、各国で記念出版の刊行や映画の上映や展覧会などが行われていますし、ポーランドでは今年を「レム年」と銘打って、各地で様々な催し物を企画しています。私も九月にクラクフのフェスティバルでレム作品の翻訳家セッションに参加する予定だったのですが、このコロナ禍もあり、オンラインでの参加に留まりました。最近ではアラビア語やインドネシア語で『ソラリス』が読めるなど、レム作品の翻訳もだいぶ進んできました。逆に英語圏でのレムの評価はそこまで高くありませんね。
巽 それはおそらく、英語圏における初期の翻訳の質がよくなかったためかもしれません。レムに影響を受けたというアメリカ作家は少なくて、私が知る限りではサイバーパンク作家ブルース・スターリングぐらいでしょうか。これも翻訳の良し悪しによって評価が左右されてしまった例ですね。日本では重訳ではあっても飯田さんの翻訳はかなり長いあいだ読み継がれてきましたし、円城塔さんもレムの影響を公言していますから、やはり文化の基盤として過去の翻訳にも意義があったわけです。そして、今回は原典のポーランド語からの訳し下ろしがついに実現したわけですから、それを読んでまた新しい作家が出てくるんじゃないでしょうか。
 先ほど芝田さんが触れていましたが、六〇年代の訳者はレムが描くロボットや機械兵器をどう翻訳したらよいかわからなかったと思います。ただ、この半世紀のあいだに現実のテクノロジーが進歩したため、訳しやすくなったところもあるかもしれません。
芝田 そうですね。作中に出てくる《虫》も超小型のドローンと解せばわかりやすい。ただ、レムの場合は科学技術の知識に限らず、言語の知識も非常に豊富なので、フランス語やドイツ語、ラテン語などが本文中にいきなり出てきたり、あえて国籍が不明瞭な名前を登場人物につけたりしていて、翻訳を困難にするハードルがいくつもあります。先に述べたように造語や言葉遊びの問題はとても大きいです。いまではインターネットで比較的簡単に背景知識を検索できますが、ネットがなかった時代には調べる方法が非常に限られていたと思います。
巽 SF小説自体に造語が多いんですね。レムのソラリスは二重の太陽の周りを回っている惑星ですが、昨今SF界隈で話題になっている劉慈欣の中国SF『三体』(二〇〇八年)は、三つの太陽を持つ世界が舞台なので、その星は英訳だと「トライソラリス」(Trisolaris)と呼ばれています。これなど、まさにSFがSFを産む実例として興味深い。
 ところで、『インヴィンシブル』の旧題『砂漠の惑星』は、今回のレムコレ第二期開始とほとんど同時期に新作映画が公開された、アメリカ作家フランク・ハーバート原作の『デューン 砂の惑星』を彷彿とさせます。これは単なる偶然で、作風も全然違いますが、ただしこれら二つの作品はもともと発表された年が近い――『インヴィンシブル』は六四年、『デューン 砂の惑星』は六三~六四年のあいだに雑誌で連載されて六五年に単行本化されている。もともと『インヴィンシブル』にしても、六〇年代に早川書房から出た『世界SF全集』では翻訳家の飯田さんの解説で、本来は「無敵」というタイトルだが、邦題として『砂漠の惑星』と名づけた、という但書がある。一方、日本では本格SF『第四間氷期』(一九五九年)も発表している安部公房が六二年に新潮社の純文学書き下ろし特別作品シリーズの一環として『砂の女』を刊行し、昆虫マニアの主人公が砂漠の砂穴の底に囚われ脱出しようとするも失敗するという、日本版シーシュポスの神話を展開しています。これら三つの作品に共通するのは「砂漠」とともに「虫」で、採集対象の昆虫から機械種族、巨大な砂虫と幅広い描かれ方をしている。安部の『砂の女』は花田清輝の「砂漠について」(一九四七年)から影響を受けたとも言われますが、彼自身は砂漠をプラスティックなもの、いろいろなかたちにつくりかえることができるものと見做していて、ある意味でレム的な「生命なき進化」のイメージにもつながります。案外そのあたりに、安部公房の小説が東欧諸国で広く受容された世界文学であるゆえんがあるのかもしれません。
 最後に、レムはサイバーカルチャー転じてはサイバーパンクについても予期した作家だと私は思っていますので、本コレクションでは『電脳の歌』の刊行も楽しみにしています。
芝田 私が訳した『地球の平和』は来年の二月ごろに刊行される予定です。先にも言いましたが、テーマとしては『インヴィンシブル』とも近いので、ぜひ読み比べていただけたらと思います。また、第Ⅱ期には本邦初訳の作品が数多く収録されますので、大勢の方に手に取っていただけたらうれしいです。そして、未だ刊行予定に入っていない絶版状態の作品、小説以外の評論・時評、書簡集など、まだまだ日本語で読めないものがずいぶんあります。機会を見つけてそうした作品も紹介していければと思います。
(了)







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