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評者◆睡蓮みどり
すべての女優は女である――中川龍太郎・穐山茉由・安川有果・渡辺絋文監督・脚本『蒲田前奏曲』
No.3464 ・ 2020年09月19日




■本当は自分が何を思っているのか、まだ咀嚼できていないのに締め切りが迫ってきて、なんとか書いてみる。そんな白状をしてしまっては申し訳ないが、後で読んでみて自分で「何言ってんだろ」と突っ込みたくなることもある。それでも後で読み返して、そうそう、と同意することも何度かあって、基本的には昔の文章というのは恥ずかしいものではあるけれど、残しておいてよかったと思っている。すべてがエゴだという気がして悲しくなる。
 これを書いているいまも、当然のように刻々と時間が過ぎていってしまう。この間にいろんな感情が生じた。悲しい、悔しい、混乱する、苛立つ、寂しい、もっと言い表せない何か。8月30日に、出演した映画『東京の恋人』の監督の下社君からメールをもらって、文字面はわかるけど、書かれている意味が本当にわからなくて、その日は何も手がつかず、ただ時間が嫌な音を立てながら過ぎていった。背中にのしかかってくるあの重たさは、きっと忘れられないものになる。それからすぐに、偶然、新しい短編映画の撮影だとか写真の撮影があったりもして(コロナでしばらくなかったので本当に久しぶりに)、そのおかげで気が紛れた瞬間もあった。そもそも、そういった肉体を使う仕事をしようと大学生の頃に決めたのは、やっている間はほとんど何も考えなくて済むから、というのが大きかったのだということを思い出す。頭の中と身体とのバランスを取るのがとても難しかったのだ。いまではだいぶ慣れてきたような気もするけれど、そんなのもおそらく錯覚で、ちょっとしたことですぐにダメになりそうになる。だから私はきっと物を書くだけでも、肉体を使うだけでも、どっちかだけではうまくいかない。
 例えばそんな話を誰かと話したのはとても久しぶりで、だから私は彼女と出会ってからそう長くはなかったのだけれど、そんな「感覚」が通じ合えたことはすごく嬉しかったのだ。一歳違いで誕生日も近くて、背丈も一緒。高校時代が軽音楽部所属のところとか、同じグラドル出身とか、役者で物書きとしても活動しているとか、そんな偶然が嬉しかった。出会えたことに対する純粋な喜び、ワクワクする感覚。久しぶりに「友達」と呼べる人ができたと思った。この人には胸の内を曝け出していいのではないか、いや、そうしたい。そして私ももっと知りたい。知り合うきっかけになって共演した『東京の恋人』もまだ上映中で、近くイベントでもすぐに会うだろうと思っていたし、お茶しようねとか、そんなやりとりをしていたばかり。お互いに書いている小説の話もしようと約束した。本当のことを言えば、どんな言葉を交わしたとか、誰とも共有する必要もないことで、一人で静かに何度も思い出しながら、考えたいと思っている。ただあなたの存在が私にとってはとても大きいものであるということを、やっぱり書き留めておきたいと思っています。階戸瑠李ちゃん。ずっと勝手にライバル視していました。あれからずっと考えているけれど、いまでもまだ全然うまく言えそうにないよ。困ったなぁ。どうしていいかわかんないよ。だからいつものように今日も映画のことを書くね。



 『蒲田前奏曲』について。蒲田マチ子(松林うらら、兼企画プロデューサー)という女優について、4人の監督が東京・蒲田を舞台にしてつくった映画。4つの世界が、続いているのか続いていないのか、確実に同じ世界ではあるけれど違う世界であるかのような不思議な感覚に陥るのは、もちろん監督のカラーやテイストが全く異なるというのはある。ただその中でマチ子自身がいろんな顔を持っているかというと、そうではなくて、彼女だけはむしろ一貫して蒲田マチ子であり続ける。マチ子は27歳で決して有名な女優ではなく、恋人も特にいなくて結婚もしていなくて、中華屋でバイトをしながら弟と一緒に暮らしている。生活、同世代の女友達同士のあれこれ、女優としての壁と、様々な角度から彼女を捉える。
 私は「すべての女は女優である」という言葉がどうも嫌いだ。嫌いというか、納得がいかない。だってこれって無理解の延長線上にある言葉だと感じるから。「女って怖いねー」とか「結局女だから」の悪い仲間というか、理解できないことにぶち当たったときに都合よく登場する言葉。裏を返せば、女はこうであれ、という呪いのような言葉だと感じてしまう。まさにこの映画のキャッチコピーが「女を演じるなんて、くだらない」で、くだらないと言い切れてしまうことが格好よく、小気味いい。「すべての女優は女である」――いや、もちろんごくごく当たり前のことなのだけど、映画を見ながら最近フェミニズム界隈のタイムラインでよく見かける、「#女だって同じ人間」が頭をよぎる。
 これもまた、そんなの当たり前だろう、と思う人もいるかもしれないが、なぜわざわざそれを言葉にして主張しなければならないのか、ということが重要なのだ。この価値観が当たり前だと感じていたら、あえて言葉にする必要はない。敏感になったわけでも、ヒステリックになったわけでもなく、見て見ぬふりをするのをやめただけ。女性たちが言葉を持ったのではなく、もともと持っていた言葉を解放させてあげることができるようになりつつあるということ。逆に、これまで言葉がいかに自分だけのものではなく、社会や環境に左右されるものであったかということを思う。どんなに美しい言葉で語らおうと、聞く耳を持つ者たちがいなければ、ないことと同じになってしまう。そして語るだけではなく、同時に彼女たちは/私たちは他者の言葉を聞くことも始める。
 #MeToo運動に触発された『ニーナ・ウー』(19年、ミディ・ジー監督)の主人公も女優で、撮影現場や監督から受けるセクハラ、パワハラに追い詰められる女性の心理をサスペンス調に描いていた。ただ、この映画はどこか「すべての女は女優である」的なものから抜け出せていないように感じた。一方で、『蒲田前奏曲』の3章に当たる安川有果監督の『行き止まりの人々』で、マチ子が「#MeTooを題材にした映画」のオーディション会場で黒川(瀧内公美)と出会い、演技をぶつけ合うシーンには心を掴まれた。劇中、「#MeTooを題材にした映画」を制作するスタッフはみんな男性で、「社会問題に寄り添っている俺ら」はいても、目の前にいる彼女たちに何をしているか/してきたかはわかっていない。そして現実でそんなことは多々ある。
 想像でしかないが、この映画での男性監督・キャスト・スタッフが背負っている役目は、映画の中でも現実の製作面においても非常に重要で、なおかつ緊張感のあるものだったのではないだろうか。そういう意味でも新たな映画づくりの試みとしても非常に興味深い。一人の女優を撮るオムニバス映画がプロモーション的なニュアンスが多くなりがちなのが多い中で、このような映画が出来上がって公開されることが嬉しい。途中、戸惑いもあったのだけれど、決して企画倒れしているような何かではなく、進むたびにどんどん裏切られていき、映画そのものが非常に面白い。4章の渡辺紘文監督のパート『シーラカンスどこへ行く』では、主人公不在のまま突然異次元に連れていかれるような感覚に。何これ。最高。とにかくいつか、あの映画の世界で、マチ子と渡辺監督は一緒に映画をつくることになっているらしいから、それも楽しみだ。迷いながらも、敏感でいることに恐れずに、生きて、マチ子はどうか女優であり続けて欲しい。
(女優・文筆家)







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