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評者◆睡蓮みどり
彼女たちの人生という旅が始まる――トム・ハーパー監督『ワイルド・ローズ』、ツヴァ・ノヴォトニー監督『ブリット=マリーの幸せなひとりだち』
No.3454 ・ 2020年07月04日




■自粛が一応、明けたらしい。電車に乗るときに誰かが隣に座るのにこんなに抵抗を感じる日が来るとは思っていなかった。先日、知人と会食した代官山のレストランはすごく混んでいて、ものすごい密状態だった。とはいえ私は全然意識が高い方ではなく、行きつけの飲み屋さんなどに行くと酔っ払って友達に抱きついたりしてしまう。よく覚えていないが、翌日写真が送られてきてギョッとする。普段はずっとマスクをしていて、電車でもそんな風に思うにもかかわらず、飲むとすぐに忘れる。我ながら意識が低い。なので全然偉そうなことや啓蒙するようなことは言ってはいけない人間だということくらいは自覚している。飲みに行くのはもともと好きだが、わざわざ会わずとも済むことも増えた。乗り気でない場合は非常に心が穏やかになる。誰かと会って話すというのは楽しいことである一方で、とても体力を消耗する。逆に長時間一緒にいても全然疲れない相手というのは相当相性がいいというか、結構奇跡みたいな存在なのかもしれない。

 『ブリット=マリーの幸せなひとりだち』の主人公、ブリット=マリー(ペルニラ・アウグスト)は「外に出るな」と命令されたわけではないのだが、結婚してから40年、ほとんど外の世界を知らない女性だ。旅行も好きではないらしい。自主的に自粛をしてきたような感じだ。彼女は専業主婦として完璧に家事をこなす。朝6時きっかりに起きて、夕食も18時ぴったり。専業主婦ではないが、私の母はものすごく掃除が好きだった。いつも窓とか床とかを磨いていた。なぜ毎日そんなに床を磨くのか不思議だった。私はそういうことに無頓着で、人が来るときにかろうじて家を片付ける程度。見かねた友人が私の代わりに掃除をしに来たこともある。カーテンも5年ぶりくらいに洗った。最近も断捨離を始めてみたが、途中で飽きた。ブリット=マリーが私の部屋を見たら、さぞかしイラつくことだろう。
 ある日、夫が出張先で心臓発作で倒れたと連絡を受ける。病院に駆けつけると、そこには戸惑う看護師の姿と、見知らぬ女性の姿が。取り乱すこともなく、洗濯物のシャツをカバンに入れるブリット=マリー。しかし彼女はすぐに仕事を探し、家を出ることにする。60歳過ぎという年齢のこともあり、40年以上、外では働いていなかった彼女が見つけられる仕事は多くない。ボリという小さな町でユースワーカー兼サッカーチームのコーチとして子どもたちに教えることになる。子育て経験はなく、サッカー観戦が趣味の夫が「サッカーは人生と一緒だ」というのも理解ができない。つまりサッカーにも興味なんてない。子どもたちにも「サッカーのことなんか全然わかっていないおばさん」と言われてしまうが、それでも必死にルールブックを手に練習に参加し、子どもたちにとってなぜサッカーが必要なのかを理解しようとする。
 ブリット=マリーは全然笑わない。まるで笑い方を忘れてしまったという表情だ。やがて夫は迎えに来る。彼女がいないと「困る」のだ。「困る」ことと「心から必要とする」こととは全く意味が違う。彼女は決して多くを望んでいるわけではなかったが、夫にはそのことがわからないのだ。早くに事故で亡くなった夢見がちな姉との思い出の日々の中で、ブリット=マリーは微笑んでいる。疑いを持たず決められたことをするだけでなく、自分の人生を歩き始めた自粛明けの彼女の表情は明るい。人が同じ場所に留まっていなきゃならない理由なんてどこにもないのだ。これから始まる彼女の旅を想像すると、少し明るい気分になる。

 もう一人、自分の人生をようやく歩き始めた女性がいる。『ワイルド・ローズ』のローズ・リン=ハーラン(ジェシー・バックリー)だ。彼女は年若くして二人の子どもを産み育てているシングルマザーだ。軽犯罪で服役させられており、現在も保護観察中の身。彼女は14歳の頃からバンドを組み、カントリーを歌っている。その歌唱力は誰もが認める才能があるが、歌手として成功を収めることは簡単ではない。ブロードウェイミュージカルが原作の映画『ドリームガールズ』や、レディー・ガガ主演の『アリー/スター誕生』、薬師丸ひろ子主演の『Wの悲劇』など、ヒロインがスターになっていく様と葛藤を描く物語はこれまでにもたくさん存在する。しかし、ローズの場合はちょっと事情が違う。
 彼女は家政婦として働き親切な家主スザンナ(ソフィー・オコネドー)に出会い、BBCの人気ラジオDJと出会うチャンスにも巡り合う。そしてスザンナの誕生日パーティーで憧れのナッシュビルに行くための資金を集めようと提案を受けるなど、一見すると恵まれているようにも見える。でもローズはことごとくうまくいかない。彼女を取り巻く環境は現実的に過酷なものだった。幼い子どもや母親との関係はどうしても彼女を簡単にサクセスストーリーの舞台にはあげてくれない。ローズは自分のことしか考えないような、他人を平気で利用するようなタイプの人間ではない。不器用で愚直だが、だからこそ彼女に歯止めをかけてしまうのだ。
 成功するとは一体なんだろう。ようやくたどり着いたナッシュビルで、ローズはそこが自分の居場所ではないことを痛感する。売れること、成功することを夢見る若い女の子にとって、それはとても過酷な現実かもしれない。夢か家族か、そんなどちらかを選ばなければならないところには幸せは訪れない。知らない街の空気を浴びて異邦人になりながら、彼女はそんなことを考えただろうか。自分らしく生きること。自分の居場所を見つけること。それは文字にしてしまうと、とてもあたりさわりのない綺麗ごとに聞こえるかもしれない。だが本当に居場所を見つけ自分らしく生きるためには、様々な価値観から解き放たれて本当に自由になる必要がある。その闘いが容易ではないことは想像に難くないだろう。彼女は決して負け組なんかではない。彼女は真のアーティストとして、自分の足で今日もステージに立っている。
(女優・文筆家)







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