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評者◆平井倫行
羊たちの沈黙――「ハマスホイとデンマーク絵画」展(@東京都美術館、1月21日~3月26日。※4月7日~6月7日、山口県立美術館に巡回予定)
No.3441 ・ 2020年03月28日




■――しかし、あの女はどうだったろう、あの女は。からだを二つに折り、顔を両手のなかへ埋め、物思いに沈んでいた。
リルケ『マルテの手記』
(望月市恵訳)

 幸福の条件とは何であろうか。
 十九世紀末デンマークを代表する画家ヴィルヘルム・ハマスホイを中心とする展覧会が、東京都美術館で開催されていた。
 今回の展示は、ハマスホイの代表作や国内未公開の作品も含め、デンマーク絵画の黄金期の画家達の画業を、日本で初めて大規模に紹介する記念碑的な展覧会であり、ありふれた素朴な生活や、些細な日常の幸福(「ヒュゲ」)に喜びを見出す「親密さ」を、文化の基調とするデンマークの風俗、風景、室内画の伝統が、いかなる形で隆盛し、そしてかく生じた「絵画の伝統」に育ちつつ、ハマスホイが到達した、その独自の画境を巡る構成となる。
 一八六四年五月十五日、首都コペンハーゲンに生まれ、幼少期より画家となるための徹底した英才教育を施されたハマスホイは、誰もいない室内や、そこに佇む、背中をこちらに向け顔貌を窺わせない人物の姿を、多く描いた。
 時に「室内画の画家」とも「北欧のフェルメール」とも呼称されるごとく、その端正で静謐な画家の表現は、居心地のよい部屋の瞑想的な雰囲気と、灰色をベースに抑制された淡い色彩により、霧雨のように震える光の効果となって、詩情に満ちた独特の空間を画面全体に示現させる。過ぎ去りし時代の家具や調度、積み重ねられた時の重さを感じさせる、古く美しい一室と、上品で落ち着いた薄明かりのもとに開かれる、内省的で、郷愁を掻き立てる調和したハマスホイの筆致は、どこか遠い日の記憶や、あたたかくも柔らかい不安定に凝固した思考の残滓、それ自体が一つの象徴詩の余白とでも述べるべき、静寂世界の痕跡といえる。
 画家が生涯に描いたジャンルは、室内、風景、建築、肖像など多岐におよんだが、一貫してモデルとなったのは、自宅や家族、友人といったごく親密な関係性、あるいは個人的に思い入れのある特別な場所に限定され、従って画家にとりその作品は、主題から場面にいたるまで、全てが手の届く生活の延長にあった。しかしハマスホイによって結果描写された日常とは、日常のようではあれ、それは決してそのままの意味での日常ではない。綿密な計算によりトリミングされた小さき世界は、画家のいかなる私生活とも乖離した、非現実との均衡を、あくまでもほのめかす構成となっている。
 幾度かの渡航経験をのぞき終生、首都コペンハーゲンに活動の拠点をおきつつも、近代的な建造物や都市生活を主題とすることはなく、画家は常に、前時代的な古めかしい建物に住み、またその所有し描いた家具や調度も、当時すでに、骨董的価値を帯びた品々ばかりであった。
 ハマスホイが「室内画の画家」として、その作風を確立する大きな契機となったのは、一八九八年に転居した、コペンハーゲンの旧市街地・ストランゲーゼ三〇番地での生活であったとされるが、展示中、同居宅にて制作された代表作《背を向けた若い女性のいる室内》の傍らには、刺青された人の肌を思わせる、ロイヤル コペンハーゲン製のパンチボウルが配置される。画家が作画をした時にはもう、一度砕けた蓋を修復した後であったためか、本作にはこの品の、「僅かに噛み合わない」隙間が丁寧に描写されている。写実的な表現を好むようでいて、その実巧みな工夫や変更を凝らし、細部を「省略」するのを得意とした作家にとって、してみれば、この執拗な細部の再現には、この細部が画家にとり「省略する訳にはいかない」何がしかの意図に基づき構築されていたことを想像させるものであろう。
 ハマスホイが活躍した時代とは、印象派や象徴主義、キュビスム、表現主義といった、多様な世紀末芸術の運動が世相を騒がせていた時代であり、またそれは押し寄せる近代化の波と共に、祖国の暮らしが様々な形で変化を強いられた時代でもあった。十九世紀末のデンマークにおいて室内画の需用が高まった理由の一つにも、そうした急速な近代化の展開に対する自閉の場、避難所として、外界から隔絶されたプライベートな空間への関心が興隆したことが、背景にはあると考えられている。本人がそれを意図していたにせよ(もしくは、まるでそうでなかったにせよ)、同時代を共有した人々にとり、ハマスホイの世界にもまた、開発の中で消えゆくかつての穏やかな街並みや、時間から隔てられた室内に隠喩される、古き時代への哀悼が存在していた。

 「私はかねてより、古い部屋には、たとえそこに誰もいなかったとしても、独特の美しさがあると思っています。あるいは、まさに誰もいないときこそ、それは美しいのかもしれません」

 いつでも壊せてしまうからこそ、その平凡な幸福(日常)は、拝跪するほどに愛しい。
 慎み深く、控えめで、それゆえの繊細さと洗練された美意識を有したハマスホイは、一九一六年二月十三日、咽頭癌のため逝去した。
 享年五十一歳。
 死を間近とした画家は、自らの私生活に関する個人記録を、全て破棄したと伝えられる。
(刺青研究)

※なお、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、東京都美術館での展示は閉幕しました。今後に関する休館情報、会期の詳細は展覧会公式サイトをご確認ください。







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