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評者◆凪一木
その35 彼を止めてくれ
No.3436 ・ 2020年02月22日




■津久井やまゆり園で一九人を殺害した植松に対しては、かなり力の強い意見を目にする。
 〈絶対に許さない〉〈できる限りこの事件を風化させない〉〈無関心であってはならない〉などなど。しかし、植松の手前で捕まっていない人間に対しては、それほどの関心を示さず見過ごしすらする。最古透は、植松とどう違うのか。植松は捕まっているけれど、捕まりもせずに次のいじめを繰り返している連中を、そう簡単に許すのか。それは、最古透のことではない。今、あなたの隣にいるかもしれない奴のことなのだ。目の前にいるかもしれない。というより恐らく「いる」のだ。
 そもそも、上の者に「媚びる」姿を見ること自体が、私は嫌で嫌でしょうがない。それをまともに見せられ、耐えなければならない世界が、私にとっての認識としての、サラリーマン社会である。媚びた結果、「あの」最古透の罠に嵌まった男がいる。

 私も今や充分に会社員であり、サラリーマンではあるのだが、「ビル管」という職業をそう思っている元会社員や元サラリーマンは、そうはいない。私などは、いよいよどっぷりとサラリーマンになった気分であるのだが、本格派のサラリーマンだった人間からすると、ビル管は中途半端なサラリーマンであるのだろう。それでも、私が感じる、中途半端なその「サラリーマン」というものに対する不満を述べたい。
 サラリーマンが一番ズルイところは、都合良く二重基準を使い分けできるところである。その嫌らしさは、自分はそうではないが、会社の方針がどうとか、上司の意向がどうとか、親会社の都合で、といった言い訳(たとえウソであろうと)を述べては、「お願いします」だの「すいません」だのと、不当な要求ですら平気で通してくるところである。
 実は自分(つまりはお前)がそうなのだ、とはっきり分からせたい気持ちになる。
 「僕はそう思っていないんだけど、そんな態度では、上司が君のことを、ダメだと思うんだ」
 まるで、「僕はそうは思わないけど、読者がそれではダメだと思うんだ」という性質の悪い編集者のようだ。自ら責任を取らない上に、それでいて、相手にとって、さらに良くない結果を飲ませようとするところである。逆にそれは、サラリーマンのすごいところでもある。
 人間は、ある人間が「嫌いだ」と言っても、一から一〇〇まで嫌いなわけではない。だから絶縁宣言などせずに、次の日からも平然と付き合っていく。フリーの、芸術家気取りの、作家や画家や脚本家は、嫌いとなると、さっさと付き合わない。私の場合も作家をやっていたから、多少のやり取り以外は付き合わずに済んだ。会社員のように顔を合わすことも、嫌なら「ない」。会社員のその嫌な奴とも付き合うという態度は、果たして、強さであるのか。実のところ弱さであると私には見える。いじめや暴力への消極的な迎合。
 見透かされるのを嫌っているだけであり、「耐えられない自分」をこれ以上発見するのを嫌ってもいるのではないか。ある種の、所詮は防衛本能にすぎない。相手に非を委ねるようでいて、自らの非を隠す作用に手を染めている。
 サラリーマンは、侮蔑と悔恨とを見つめながら、無様にでも、翌日から家族や友人のためにか、「嫌いな人間との時間を過ごさざるを得ない空間である」会社に行く。そんなサラリーマンにどっぷりの控えめな男が、しかしそれでも、今「辞める」と言っている。最古透の策略に嵌まったからだ。

 人間というものは、いったいどこまで格差をつけ、緩やかな暴力でもって、他人が苦しむ姿を見たら満足するものなのだろうか。下請けと元請け。派遣と正社員。雇員と契約社員。警備と清掃。施設警備と交通誘導。どこまで行っても安く寂しい戦争をしている。日本だけに特徴的なのかは知らないが、なぜ天皇制をいつまでも大事に抱えているのかという国民性もあるだろう。お上を敬わせようとする仕組み。予め上下の差があると思いこませる体制。馬鹿でも上司はそれなりに大変なのだ、と問題(無能であること)に触らせない態度。
 よく「総理が悪い」「与党が悪い」と敵(目標、有名どころ)を名指しできるだけで大喜びして、それで満足しているような奴がいる。「これほど国民をバカにしている政権は世界中を探しても無いだろう」とか……。たくさんあったら、いいのかよ。
 「これほど馬鹿な所長は、世界じゅうどこを探しても……」などと言っていられるなら、事は簡単なのだ。たった今、いや、昨日も、「上(元請け)から言われた」と、結果的に下請けいじめを代理人として言い放つ所長。
 鎌田慧の『自動車絶望工場』は、所詮は潜入ルポだと思う。いずれここ(工場)から抜けられる期間工で、仮の姿。一生ここから出られないかもしれないと思っている人間の恐怖とは違う。行動を起こせるかどうかは、その会社にどれだけサラリーマン的な人間が少ないかによる。サラリーマン的な人間にとどまっている限りは、常に抵抗勢力としかならない。しかし仮の人間は仮でしかない。逃げていく。
 四九歳の所長も四度転職したという。
 「酒を飲んで憂さを晴らし、愚痴を聞いてもらったところで、次の日に会社に行っても状況は変わっていないし、問題も解決していない。何にもならないじゃないか」
 そう言って、所長は、辞めると言っている控えめな男を引き留めない。
 違うよ。世界が変わる。世界観が変わる。気持ちが変わる。会社の出来事など、所詮大したことではないことに気付くんだよ。憂さを晴らすだけでも違うんだ。
 多くの問題の中心は、相手ではなく、自分の態度の決め方や心の持ちようによる。相手に言い返せる自分が登場したとたんに実は問題の半分以上が片付いたりしていることがある。言い返す自分が現れれば、その物語の局面も展開も変わる。
 昔、私はビデオのダビング会社にいた。その時二人の部長がいた。もともと社長の友人でどちらも日本鋼管を辞めて引き抜かれた男だった。知能派と武闘派で、知能派の方は専務、武闘派の方は常務で、社長に気にいられていたのは明らかに知能派の方であった。だが、私から見ると、知能派は、実務はまあまあこなせるが、本当の意味では頼りにならない。武闘派は頼りになった。或る時、私を守ってくれたのだ。
 所長、引き留めてくれ。
(建築物管理)







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