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評者◆殿島三紀
「完璧な文章は存在しない、完璧な絶望が存在しないようにね」(「風の歌を聴け」)――監督 ニテーシュ・アンジャーン『ドリーミング村上春樹』
No.3420 ・ 2019年10月26日




■『エンテベ空港の7日間』『第三夫人と髪飾り』などを観た。
 『エンテベ空港の7日間』はジョゼ・パジーリャ監督作品。テルアビブ発アテネ経由パリ行のエールフランス機がドイツ人とパレスチナ人4名のテロリストにハイジャックされ、240名近い乗客が人質になった1976年のエンテベ空港ハイジャック事件を描いた作品。7日後、イスラエル特殊部隊が「サンダーボルト作戦」を遂行し、102名の人質が解放された事件だ。事件後すぐ3本映画化されているが、事件から43年経った現在、前3作とは異なる多面的な視点から事件を捉え直した。サスペンスフルな作品。
 『第三夫人と髪飾り』。アッシュ・メイフェア監督作品。本作の舞台は19世紀のベトナム北部の美しい渓谷に囲まれた村。この地域では20世紀中頃まで一夫多妻制が続いていた。ある大富豪の許に14歳の第三夫人が嫁いでくる。男子を産むことが女の唯一の務めだった時代の話で、自身ベトナム人である監督の家族の歴史を基にした作品。女性が声を上げることができなかった19世紀。第三夫人として嫁いだ14歳の少女の成長、自己発見の過程が美しい北ベトナムの自然を背景に描き出される。
 今月の新作映画は『ドリーミング村上春樹』。好悪は分かれるもののやっぱり気になる作家である。破竹の勢いで海外に拡がり、世界50言語に翻訳されている村上作品だが、その殆どは英語からの翻訳だ。本作に登場するのは、1995年に「ノルウェイの森」と出会って以来20年以上にわたり、彼の作品を直接日本語からデンマーク語に翻訳し続けるメッテ・ホルムという翻訳家である。
 監督はデンマークの新鋭ドキュメンタリー映画監督ニテーシュ・アンジャーン。彼は「『ドリーミング村上春樹』は、村上春樹を翻訳する芸術と、村上春樹を読んだ時に信じていることについての映画」と語る。私たちは幸いにして村上作品を彼が書いたままの日本語で読むことができるが、本作では、その作品を翻訳するメッテ・ホルムがどのように格闘しているのか、外国人にとって村上ワールドはどんな映像で捉えられているのかを見ることができる。「1Q84」に登場する二つの満月も、自分の脳内に浮かぶそれは夜空に貼りつけられた紙の月に過ぎなかったが、本作の月を見てやっと可視化できた。
 「完璧な文章は存在しない、完璧な絶望が存在しないようにね」(「風の歌を聴け」)。日本人なら「うん、そうだよね。絶望って経験したことないけど……」とサラッと受け止めても、翻訳者となるとそうはいかない。デンマーク人読者にとっては彼女の訳したハルキ・ムラカミが唯一の村上春樹になっていくのだから。彼女は「完璧」という言葉を「完全」と解するか「欠落の無い」と解釈するかで悩み、「文章」という言葉を「テクスト」とすべきか「センテンス」とすべきかで苦しむ。
 翻訳は他人の言葉や考えを再構築する仕事で、翻訳家には作家についての周辺知識が必要だ。メッテは過去の作品を読むだけではなく、作家の人生や背景を徹底的に探り、言葉の使い方について考え、村上が10代の大半を過ごした芦屋を訪ね、ジェイズ・バーに似たバーで客と話し、ピンボールを取材し、タクシーの運転手と会話し、深夜のデニーズにも行く。
 カメラは、真摯に言葉を追う彼女を記録するだけではなく、村上の聖地を探検する冒険者としての彼女と共にさまよい始める。もしかしたら、これはドキュメンタリー映画ではなく、村上ワールドのシンボル的存在を再生する翻訳者メッテ・ホルムの“ハルキ・ムラカミをめぐる冒険”という劇映画なのかもしれない。
 ラスト。冒険を終えたメッテはコペンハーゲン王立図書館で作家との対談に臨もうとしている。顔を上げ、高揚した面持ちで彼女はステージに向かう――。
(フリーライター)







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