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評者◆秋竜山
ホラッチョ、バカッチョ、の巻
No.3397 ・ 2019年04月27日




■かつて、昔からの漁師が勢いあったころ。若い私はその中へ飛び込んだのであった。そして、「このバカ」と、よくいわれたものであった。話し言葉の終わりに「このバカ」が必ずついた。若い漁師は年上の漁師によくいわれたものであった。そのことを田舎へ帰った時、酒の席などで昔話として話した際、「あの頃は、よく叱られたものです」と、いうと。「バカ、そーではない」と、その人がいった。叱ったのではない!! と、いった。あの「バカ」は、愛情だといった。そして、「このバカ、が」ではなく、「このバカッチョ」と、「チョ」が、つくといったのである。そういわれてみると、たしかに「チョ」がついていた。言葉の終わりに「このバカッチョ」と、自然とその言葉が出た。それに対して、いわれたほうも別に不快を持つものではなく、そーいう村の方言のようなものととらえていたのであった。「このバカ」と、「このバカッチョ」の違いをよく考えてみると、昔から、そういわれていたというのである。昔っていつ頃からか? わからないという。それにしても「チョッ」とはなんだろう。
 和田秀樹『バカの人』(ゴマブックス、本体一二〇〇円)では、第1章から第8章まで、「さまざまなバカ」の種類が徹底解明されている。バカに関する本は今だおとろえず。〈第1章 性格バカ〉では、
 〈最近は考え方もアメリカナイズされてきて、「欲しいものは相手が気をまわしてくれるのを待っているのではなく、自分が自己主張するべきだ」という考え方の人たちが増えてきたようです。極論をいうと、相手が遠方から訪ねてきても、お茶を出す必要はない。もし喉が渇いていて、お茶がほしかったのなら、本人が「お茶をくれ」と言うべきだ、という考え方です。(略)アメリカが日本の昔ながらの「気づかい」の文化を学ぼうとしているときに、日本では古いアメリカの「気づかい」のない無遠慮なむき出しの競争主義や、すべてを言葉で自己主張するという考え方を見習おうとしています。〉(本書より)
 そこで、思い出したのが、かつて日本は、「まず、あやまれ」精神であった。ことがおきたら、なにはさておきまっさきにあやまるのだと、親にいいきかされたものであった。一番いい例として、車の事故の時であった。ところが、アメリカでは絶対にあやまらないということであった。あやまるということは、こっちが悪いと、認めたことになるからだという。それがアメリカ式だと、いうのである。日本式では「あやまる」ことであったのだ。あやまったりすると、「なぜ、あやまったりするんだ。こっちが悪かったことを認めたことになるんだぞ」と、いうようになってしまったのであった。だから今でも、日本人は「あやまる」ことをしない国民になってしまったのである。「このバカッチョ」ではなく、「このバカ」になってしまったということだ。バカッチョという昔ながらの伝統ある愛情のある言葉が日本語から消えてしまったのである。
 ところで、テレビに映し出される企業なんかの偉い人達が、やたらと頭を下げてあやまるようになってしまった。頭を下げて下へ向けた顔の表情まで映し出してほしいものだ。まさかベロを出しているなんてことが……。江戸時代だったら、武士があやまるということは、切腹を意味しただろう。そういえば昔、「バカッチョ出船」? というような歌謡曲があったような、なかったような。







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