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評者◆大塚真祐子(三省堂書店神保町本店)
「会社員」の文学性に深くもぐりこむ
『尻尾と心臓』(5月20日発売予定)
伊井直行
No.3252 ・ 2016年04月23日




■この国の総人口が1億2692万人、うち正規雇用者が3333万人、ただしリタイヤした人々がこの数字からははじかれているわけで、そう考えるとこの国における「会社員」経験者は数字でははかれないともいえる。
 こうしてぼんやりとこの国を支配する「会社員」という存在に、小説家の立場で真正面から切り込んだのが伊井直行である。二〇一二年刊行の『会社員とは何者か?――会社員小説をめぐって』(講談社)は「会社員小説」を定義しながら「会社員」を論じた刺激的な論考であり、この論考が小説として結実したのが今作『尻尾と心臓』だ。
 九州の本社から東京の子会社へ単身赴任となった「乾」と、元経営コンサルタントで関係会社から派遣された「笹島」は、共にある営業支援システムの開発プロジェクトに携わる。が、乾も笹島も全く歓迎されない。傲岸不遜と評されながら結果を出してきた「岩佐社長」や、システムの導入を巧みに拒否し続ける「安藤課長」など、「会社」に渦巻く不可避な人間関係や八方塞がりとなるプロジェクトやいかに、というのが物語の大筋である。
 伊井は「会社員小説」の定義を、「単に会社を舞台とし、会社員が主要な登場人物として登場する小説ではなく、主要な登場人物として会社員の存在が不可欠の小説である」とし、新たに「会社員における仕事と私生活の分断」という問題を出現させる。「会社員を描くのに、多くの作者は、仕事あるいは家庭のどちらかを選択し、残りの半面を月の裏側のように見えないまま放置」しているとし、小説にとって「ゆゆしい問題」ではないかと述べる。
 『尻尾と心臓』の笹島はコンサル会社での「失敗」をきっかけに「普通の会社」への転職を果たしているが、つねに外からの眼差しで「会社員」を捉えようとする。「人は、会社という組織の一員として働いていても、それぞれ自分が生きる上で大事な何かに動かされてるんじゃないかな」という笹島の語りは、そのまま「会社員とは何か」へのアンサーとなりうる。
 「仕事と私生活の分断」については幼い笹島が母の会社を訪ねる回想場面が印象深い。「内緒で会社に行って、本当にお母さんがいるのかどうか、そこで何をしているのか確かめる」ために笹島は学校をサボるが、会社で会う母は「お母さんそっくりの仮面をつけた別人」に見える。母は娘の会社訪問をきっかけに退職を決める。笹島はいまは亡き母に仕事の困難さを語りかけながら、「会社を辞めて家庭に入ったことを、お母さん自身は喜んでいたのかどうか」を問うが答えは返らない。しかし自身が直面する「キャリアの回り道」の向こうに「また別の本当のお母さん」がいるかもしれない、と考えている。これは問題への答えではない。が、会社の母を記憶する笹島は「会社員」である自分をとおして、母の「会社の顔」と「家の顔」を等しく想起しつづけるのではないか。
 「長い間、勤労や仕事は小説中において常に副次的な要素だった」と伊井は前著で書いた。このことは文学の根源を考えるとき、つねに大前提として眼前に横たわる。では「会社員」は文学の敵なのか。そんなはずはない。「人間を描く」はずの文学が「会社員」を選ぶ多くの人々を無視していいはずがない。思えば自分は文学を知りたくて会社員(書店員)になったと言っても過言でなく、そういう自分に『会社員とは何者か?』はうってつけの一冊だった。この論考が作品化された本書で描かれる「会社員」は、会社という枠組みをこえ、どんどん「個人」として立ち上がる。それぞれの「生きる上で大事な何か」が浮き彫りになっていく。画一の代名詞のような「会社員」だが、現実には驚くほど異なる。「会社員」を動かすのがその人の「人生とか生き方の根幹」であるなら、それはまるごと文学だ。
 既存のイメージによって長らく見えづらかった「会社員」の文学性に深くもぐりこんだ本書は、まぎれもなく唯一無二の「会社員小説」であり、平日の正午の街を眩しくうめつくす「会社員」ひとりひとりのための物語なのである。







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