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評者◆前田和男
元陸自レンジャーの社会 活動家・井筒高雄の巻⑪
No.3248 ・ 2016年03月26日




■阪神・淡路大震災最大の被災地・長田の支援へ

 阪神・淡路大震災直後、「朝まで生テレビ」を観ていた井筒高雄は、ピースボートが救援ボランティアを募集していると知り、興味を覚えて連絡をしたところ説明会があると言われ、ピースボートがどんな団体かも知らないままに出かけた。
 後期試験も終わった2月の頭で、場所は大阪の森ノ宮の市の公共施設だった。
 説明役は、ピースボートの東京の本部からやってきた吉岡達也(創立メンバーの一人で、現・共同代表)と後に井筒の妻になる井筒陽子(現在は旅行会社に勤務)と、上野幹斗志の3人だった。
 「朝まで生テレビ」後の問い合わせが2000件ほどあり、それをうけての参加者は50~60人ほど、会場はほぼ満員だった。ピースボートでは世界各地をめぐる「地球一周の船旅」を企画・運営して10年以上がたち、それなりに認知度もあがっていたが、メイン事業であるクルーズの問い合わせをはるかにこえる「反応」の高さに、当のピースボート側も驚かされたという。
 井筒が受けた説明によると、ピースボートが支援拠点にしているのは、もっとも被害が甚大だった神戸市の長田地区。自腹切ってでもやれる人にお願いしたいが、長期(30日以上)と短期(7日以下)のどちからを選択できると言われて、井筒は迷わず「長期」に手をあげた。長期志願者は参加者の中では彼一人だけだった。
 「自衛隊レンジャーの体験を生かしたい」という井筒の参加理由を聞いて、吉岡は「これはおもしろい」と直感、それに「怖いもの見たさ」も加わって「受け入れ」を決めたという。
 いっぽう、「後の夫」の振る舞いは井筒陽子にはさしたる印象を与えなかったらしい。今も彼女の思い出に刻まれている夫の「第一印象」は、説明会の後、もっと詳しく話を聞きたいという参加者たち20人ぐらいと共に近くのファミリーレストランに移った後のことだった。参加者が一人また一人と帰って、気が付くと「内輪」以外では井筒しか残っていなかった。大半がドリンク代を払わなかったため「ここのお会計どうしよう」と陽子が呟くと、思わず井筒は「僕も払いますよ」と応じていた。なんで自分が割り勘のメンツに入るのだろうと思い直したが時すでに遅かった。井筒が自ら巻き込まれて「他所の人」から「内輪の人」になった瞬間だった。今から振り返ると、これでその後の井筒の運命は決まったようなものだった。
 それから数日をおかず、井筒高雄は現地へと入った。以降、4月の第2週までの丸々2カ月間、泊まり込みで震災支援に没入することになる。
 ここからは、井筒と現地で文字通り寝食を共にすることになる山本隆(現・ピースボート災害ボランティアセンター代表理事)と石丸健作(ピースボート共同代表)、そして当時本部スタッフとして東京と神戸を往復していた吉岡達也と井筒陽子らの話もまじえながら、井筒の震災ボランティア体験を記すことにする。
 さて、勇躍、被災地へ乗り込んだ井筒だが、すんなりと「現場」に溶けこめたわけではなかった。ピースボートの拠点は、長田区役所の近くの新湊川公園に張られたテント小屋だった。単身で乗り込んだ井筒は現地の責任者である山本隆から瀬踏みの洗礼を受けた。
 吉岡に井筒の「出自」を予め聞かされていた山本から、「自衛隊は普通はボランティアはしないけどねえ」とジャブをかまされた。そして、支柱のポールなどの器具がバラバラでまるで合わないテント一式を渡されて「これで建ててくれ」と言われた。
 後で井筒は知ったが、ピースボートの現地スタッフの間では、吉岡が「一本釣り」してくるのは「大当たり」か「大外れ」かのどちらかだという評価がもっぱらだったらしい。山本の瀬踏みは、それを確かめるための「通過儀礼」であったとも思われる。井筒はテントの支柱のセットが合わない旨を山本に伝え、「ほな、このなかから合うのを選んで立ててくれ」と言われ、何とかテントを立てた。ついでに、雨が降っても対処できるように、他のテントを含めて側溝を掘った。自衛隊では当たり前のことなのだが。これを手始めに、やがて「大当たり」であることを証明してみせ、信任をかち得る。そして、山本とも「無二の戦友」となるが、それについては山本の神戸の震災支援を画する活躍ぶりと共に後に詳しく述べる。
 いっぽう「一本釣り」をした吉岡にとっても、井筒の受け入れには内心の「怖いもの見たさ」ゆえの不安もあったが、井筒は予想外の「掘り出し物」だった。元自衛隊レンジャーということで「ガテン系」の戦力を期待していて、それは後ほど証明されるのだが、それ以前に予期していなかった井筒の「頭脳系」の戦力に助けられる。それは、吉岡たちを悩ませていた組織体制の確立への井筒のサポートであった。そこには、そもそもピースボートが神戸の震災支援に取り組むことになった次のような経緯があった。
 ピースボートは長田に入って、半月もたっておらず、組織体制もいまだ整っていなかった。今でこそ災害支援のノウハウをもつ有力NPOとして評価も高く、東日本大震災でも大いに信頼をかち得ているが、実はそのノウハウは神戸の震災で獲得したものであり、当時はまったくの手探り状態であった。
 吉岡たちが東京で震災の発災を知った時点では、ピースボートは国際交流を主目的にした団体であり、災害支援の実績もないので、餅は餅屋にまかせるべきだと考えられていた。ところが同じ専従の山本が西宮の実家が被災したため、発災の翌日の1月18日に急遽帰郷、ピースボートも何かをすべきだと訴えるのをうけて、吉岡も現地へ飛んで激しいショックを受けて山本の提案に共感する。そこで震災の3日後の1月20日に、被災した小田実の許を訪ねた。小田は、ピースボートの創立者の一人である辻元清美が大学浪人中に通っていた予備校で薫陶を受けたのが機縁で、ピースボートの当初からの応援団であった。その小田に「なにか手伝うことがありませんか」と相談したところ、返ってきたのは「お前ら遅い!」。この小田実流の「逆説的激励」が、かえって吉岡と山本の背中を押した。小田実の衝撃のデビュー作『なんでも見てやろう』を捩れば、「なんでもやってやろう」と二人を決意させたのかもしれない。
 ピースボートは無手勝流で支援を始めた。既成の災害救援団体は自らの体制にあわせてボランティアを受け入れていた。その結果、あれがダメこれがダメと言われた志願者たちが行き場を失って「難民化」。それに対して、ここが既成にとらわれない若い団体のピースボートらしいところだが、「来るものは拒まず」という当たり前の原則を貫いた。
 当時、主に東京で首都圏からのボランティアのリクルートを担っていた井筒陽子によれば、「たった3日しかいられないけれども行きたいのなら基本的には受け入れた」。しかし、それは当然のことながら、「現場」を大いに混乱させる。
 そんな状況下へ井筒高雄が加わり、悩める総責任者の吉岡に予期しなかった「助け船」を出すのである。
(本文敬称略)
(つづく)







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