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評者◆稲賀繁美
行間の襞にこめられた沈黙のメッセージ――劉岸偉著『周作人伝――ある知日派文人の精神史』を読む
人と文化の探求(7) 周作人伝――ある知日派文人の精神史
No.3052 ・ 2012年03月03日




 1950年といえば、中華人民共和国が前年10月に成立してまだ数ヶ月。この年の早春に、周作人(1885-1967)は北京にあって「東坡の正直」と題する小文を執筆する。これに先立つ一九四七年には、旧知の友人、林語堂(1895-1976)が、ニューヨークで英文により『蘇東坡』を上梓していた。周の小文はそれへの反応を綴ったものである。『北京好日』(1938)などで日本の軍事侵略を批判していた林は、日本の敗戦から数年を経た当時、すでに共産主義に敵対する態度を鮮明にしていた。その林語堂は『蘇東坡』で北宋の歴史に言及し、王安石(1021-1086)による新政が、実際には民衆に苦難を強いるものだったと指摘する。そしてその王安石の施策に反対したことを理由に、蘇東坡(1038-1101)を評価する。
 表向きは歴史を回顧しているが、その裏で林語堂が共産党政権の「新法」への懐疑を表明していたことは明白だろう。対する周作人は日本の敗戦後、奸漢として十年の懲役を受け、南京に移送され老虎橋監獄に服役していたが、四九年正月に釈放され、北京に戻ったばかりであった。林語堂は蘇東坡が王安石に反対した点に感服してみせるが、これはいささか「反動的」だ、と「新派」の周は批判する。その一方で、周作人自身は、蘇東坡の科挙制度批判の姿勢への賛同を隠さない。そこには人民中国に期待しつつも、「大躍進」前夜の北京で蠢動し始めた知識人階級の「自己批判」の風潮に疑義を呈する、周の省察が込められていた。
 その翌日、周作人は「陳師曾の風俗画」と題する小文を物している。陳師曾(1876-1923)は画家として著名で、周はその異母弟にあたる陳寅恪(1890-1969)とも面識があったはずだが、周が注視するのは、陳師曾の「北京風俗図」に描かれた無告の民の姿であった。周はそこから別の「流民図」を連想するが、劉岸偉氏はこの「流民図」とは鄭侠の作のことではないかと推定する。鄭侠は一介の門番に過ぎなかったが、王安石の新政が実施されて、塗炭の苦しみに陥った民衆の惨状を描いて、皇帝・神宗に訴えたことで知られる人物である。
 だがここまで来ると、読者は奇異の念に襲われるはずだ。なぜなら周作人は一方で王安石の「新法」を認めない林語堂を貶めておきながら、その翌日には手のひらを返したように、陳師曾に託けて鄭侠の王安石批判を賞賛しているからである。これは不可解な矛盾ではないか。両者のあいだに隠された密やかだが重大な繋がりに、なぜ周作人の筆は及ばなかったのか。この意図的としか思えない見過ごしの陰には、いかなる沈黙が潜んでいたのか。
 流民図といえば、近くは蒋兆和(1904-86)が、日本軍の占領に伴って戦火のなかを逃げまとう難民たちの姿を克明に描いた「流民図」(1943)のことも思い出される。「群像図」と改題された蒋の絵巻は、大廟に展示されて数時間で、日本の憲兵隊により撤去を命じられ、1944年に上海で展示されるや、没収処分を受けた。その残欠半巻が劣悪な状態で辛うじて再発見されるのは1953年。だが周作人は「流民図」に触れながら、日本軍の横暴についても触れるところがない。
 74章からなる大著『周作人伝』のほんの1章を垣間見たのみだが、そこからは周作人が言外に残した謎、そして著者・劉岸偉氏が敢えて筆を控えた周辺の事柄が、次々と想念を呼び起こす。2段組500頁を超える大著だが、周到にして滔々たる名文の背後には、近代の日中関係に翻弄された大文人の命運が、深々とした陰影を刻んでおり、読者を引き込んで離さない。
(国際日本文化研究センター研究員・総合研究大学院大学教授)







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