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評者◆別役実
新大久保 (下)
No.3027 ・ 2011年08月27日




 (承前)ただちょっと気になるのは、ここへきて韓国系の店が目当てなのだろう、観光客らしい人々が増えつつある点である。私がこんなことを言う筋合いはないのだが、私がそこを仕事場にする以上、観光地として観光客にうろついてもらいたくない。妙な言い方ではあるが、昔から観光地として年季が入っている、たとえば浅草などはともかく、にわか仕立ての観光地は、そうしようとすればするほど「真面目さを失う」ような気がしてならない。
 もちろんこの街は、観光地となるべき目玉となるようなものは、何もない。従って集まってくる人々も、観光客というよりは、韓国系の店に買物に来る人々、というだけのことかもしれない。ということで私も、何とか原稿用紙をかかえて、平常心でうろついていられるのだが、何というのだろう、必ずしも観光地になってしまうというのではないが、間もなく大きく、変ってゆくような気がする。そうした「底鳴り」のようなものを感ずるのである。
 かつて、まだこの街が私にとって「都会の空洞」であったころ、或る雑誌社の座談会でこの街にある何とかいう名の、なまず専門の料理店へ連れていかれたことがあった。ただ、恐らく車で案内されたせいであろう、それが新大久保であるということは、知らなかったのだ。
 そして何年かの後、この街が街として大きく変った時、私は偶然、新大久保の駅から大久保通りを明治通りの方へ本屋を求めて歩いていて、左手の路地の奥に、その店があるのを発見した。「おや、こんなところにあったのか」という感じである。今でもそこにあるのかどうか知らないし、その後立ち寄ってみたこともないが、この街と私の関係を考える時、妙に気になる出来事なのである。
 もしかしたらこの街は、私にとっての空洞の時代と、そうでなくなった時代が重ね合せになっていて、この何とかいう名のなまず専門の料理店が、その結び目になっているのかもしれない。「なまずというのは振動に弱いので、輸送が大変なんですよ」という話を、店の者に聞いたという、妙に微細なことまで、ありありと思い出してしまうのだ。
 ただこれだけのことであるが、このこともこの街がゆっくりと大きく変るための、うねりのように、私には感じられる。この街がどう変るか、今後は注目して見守る必要があるだろう。
 ただし、この街が変になると、私の仕事をする喫茶店が、また減ることになる。はっきり言ってしまおう。この街にある、私の仕事場にしている二軒の喫茶店というのは、二軒とも例のチェーン店である「ルノアール」である。そして、この街に歩いて辿りつくための、新宿の起点となる店も、区役所裏通りにある「ルノアール」である。
 このところ私は、もっぱら「ルノアール」で仕事をさせてもらっている。ここは「煙草を吸うことが出来る」という点と、「テーブルとテーブルの間が広い」という点と、店によっては「一人で仕事をするための壁向きのテーブルがある」という点で、私の気に入っている。
 ただし、この「気前のいい喫茶店」も、少しずつ減りつつある。私の知るだけでも、目黒、鶯谷、信濃町、渋谷などの店がなくなっている。そしてこの街には、二軒残っているのである。新大久保、大久保が、私にとってどんなに大切な街か、これでおわかりいただけよう。「ちょっと歩けば、もう一軒あるよ」というのもいい。
 大久保の先に、照明家の日高勝彦氏の事務所があって、大久保の通りを歩いていると、時々出合うことがある。「やあ」と言ってすれ違うだけだが、いつか喫茶店での仕事のことを話さないと、「こんな所で何をしてるんだろう」と、思われているかもしれない。この街は、ちょっとしたラブ・ホテル街でもあるのである。
(劇作家)







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