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評者◆飯吉光夫
読みでがある記録文学――ルート・クリューガー著『道の中途で自分を見失い』を読む
No.2910 ・ 2009年03月21日




 ルート・クリューガー『道の中途で自分を見失い』という本が、昨年、ウィーンのショルナイ社から出た。
 クリューガーは、現在88歳のイルゼ・アイヒンガー(1921~)から10歳年下の、やはりウィーン出身のユダヤ人女性作家。ドイツの戦後文学でも残りわずかになった強制収容所生きのこり作家の一人である。
 1991年に出版された『生きつづける』は、もともとはドイツの代表的文芸出版社ズールカンプから出版されるはずのものだった。しかし同社の社長故ウンゼルト氏は、「あなたが執筆されたものは、あなたがナチのもとでこれほどの不幸に遇われただけに、身の毛のよだつものでした。しかし、弊社の出版物としては文学性に欠ける所があります」という理由で拒否した。同書はヴァルシュタインという別の出版社から出版されて、ベストセラーになった。
 クリューガーは11歳ごろから、テレージエンシュタット、アウシュヴィッツ=ビルケナウ、クリスチアンシュタットと、ナチのいくつもの強制収容所を転々とした。6歳年上の兄は、17歳のとき、射殺された。
 今回の本の最も注目されるのは、クリューガーが、巻の最初の部分で、自分の“いれずみ”に強くこだわっている点である。このいれずみはナチの命令で同じ収容所の囚人が入れたものだが、クリューガーはこの囚人番号を1990年代になってやっと除去した。
 それにまつわるもろもろの話が、この本を、強制収容所を生きのびた人間が、終戦後世間に出たあと、さらにどのような辛酸をなめなければならなかったか、を語る後日譚にしている。
 クリューガーは、戦後このいれずみをつけたまま、アメリカに渡った。同情されるならともかくも、それに反撥を感じて見とがめる人間がいたことが、不幸の原因になる。
 最も具体的なのは、当時、大学でドイツ文学を講じていたクリューガーのクラスの一学生が、さらに「ナチに蒙った傷を彼女の表てにさらしている」となじったことだった。この非難は大学当局への匿名の文書だったために、クリューガーは自分の手もとにある試験答案とこの手紙の筆跡の照合を願い出て、疑わしい学生をつきとめようとする。しかし、大学当局は、そのような査問機関がないことを理由に拒否して、全体は泥仕合の観を呈するようになる。
 このような顛末にはクリューガー自身の性格もあずかっているだろう。ちょっとしたことにこだわり、それをいつまでも気にかける性格である。しかし、アメリカのアカデミズム自体の中にも同様な些事拘泥の弊害はまだあって、双方のいがみあいは、ついには同僚教師たちによるクリューガー排斥にまで発展する。
 クリューガーは戦時中受けた心の傷つきを、いつまで経っても忘れることができない。しかし、その執念深さが、戦後世界でつぎつぎに別のトラブルを生んでいく。これは戦時中迫害を受けたユダヤ人通有の運命である。
 クリューガーは巻の冒頭、「わたしがこの左腕のいれずみを1990年代になってはじめてレーザー除去する気になったのは、これでそろそろ死んだ兄への記念を時効にしていいと考えたからです」と述べる。しかし、兄への記念とはいっても、兄に対するおもい自体が消えないかぎり、この措置は無効だろう。
 クリューガーはその後も、実母や夫との、次々に生まれるトラブルに火だるまのようになる。これは民族としてのユダヤ人の災難であると同時に、個人的性格からの災難でもある。
 同様の問題を最もうまく処理しているのは、現存の大批評家ライヒ=ラニッチで、彼はすべてを不問に付してドイツ人の間に立ち止まることによって、ドイツの戦後世界を立派に生きのびてきている。しかし、これは、クリューガーでなくても、至難のわざである。
 クリューガーにとっての唯一の慰めはといえば、彼女の実母と彼女の愛娘が、つまり祖母と孫が、無邪気に打ちとけ興じあっているときだけである。自分に関係のある自分以外の人間間の静けさを見て心安らぐこと、これと同様の静けさを持続させること、それがそのような心を病んだ人間にとっての一つの療法だろう。
 なお、この『道の中途で自分を見失い』の冒頭部は、フランクフルター・アルゲマイネ新聞の所定欄にある期間連載になった。記録文学(ズールカンプ社のウンゼルト氏のお眼鏡には今回もかなわなかっただろうが)として読みでがあり、好企画だった。







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