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評者◆前田和男
第58回 首相首席秘書官就任直後の大仕事、戦後五〇年「首相談話」
No.2944 ・ 2009年12月05日




 さて、こうして多くのハードルを奇跡的に乗り越えて首相首席秘書官となった河野だが、就任してからさっそく大仕事が待ち受けていた。戦後五〇年にあたる八月一五日の終戦記念日に発表された「首相談話」への対応である。
 五十嵐官房長官が渾身をこめて「叩き台」をつくったとされるが、村山首相のとつとつたる語りをもって発表されるや、日本はもちろん世界中で話題を呼んだ。談話後の八月二〇日に辞令を受けた河野は、わがことのように感銘をうけるとともに、自民党単独政権ではできなかった「労作」を世界に発信するのが務めと思い、和英両文をすべての国連加盟国に送付した。
 河野にとって最初の大仕事となった「村山談話」の抜粋を以下に掲げる。

 先の大戦が終わりを告げてから、五〇年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。(略)
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
 敗戦の日から五〇周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。

 村山政権以降、歴代内閣は――タカ派の安倍政権ですら――この村山談話を規範として踏襲してきた。九八年六月、自社さ政権が消滅、自民党が権力の座に完全復帰すると、首相や閣僚たちから、日本が引き起こしたかつての戦争を肯定するかのような「不適切発言」がくりかえされ、アジア諸国から猛反発をうけて外交的危難に見舞われるが、それを大事に至らせなかったのは村山談話の存在であった。

●村山首相突然の退陣でわずか五か月の秘書官生活

 村山終戦談話の一か月後、河野はその後の人生にとってもうひとつ思い出深い体験をする。村山首相に同行しての中東視察である。中東紛争の当事者であるパレスチナとイスラエルの双方を訪れたそれは、日本の首相としては初。村山首相も初めてだったが、河野も初めて。現地の生の状況につぶさに接して、つよい衝撃をうけるとともに無知と不明を恥じた。
 帰国して一か月余りの一一月四日、イスラエルのラビン首相がパレスチナとの和平を訴えた演説会場でユダヤ過激派に射殺されたが、臨時国会の真っ最中で村山首相は弔問に行きたくても行けない。それをマスコミに叩かれたのもこの中東訪問をさらに印象深いものにした。
 しかし、首相になるや党是をこえて日米安保「堅持」を表明して物議をかもした村山だったが、親イスラエルのアメリカとは一線を画する外交を行ったことは評価されていいのではないか。(ちなみに、その後二〇〇六年七月に小泉首相が行くまで、日本の首相は一〇年以上も国際紛争の最もホットな場所を訪れていない)これも「終戦談話」ともつながる、村山政権ならではの平和路線の現れであったと河野は今も思っている。そして、詳しくは後述するが、これがその後、河野の人生の転換のきっかけとなる。
 野党の、それも一介の「はぐれ烏書記」が、思ってもみなかった首相官邸へ乗り込むだけで、毎日が「未知との遭遇」であった。もっとも戸惑い、驚かされたのは、総理、官房長官、同副長官の各秘書官室、そして内閣参事官室の四室にそれぞれ一人、勤続二〇年クラスの女性(当時の総理府職員)がおり、めまぐるしく交替する人事にもかかわらず、官邸の基本的な機能を維持していること。そして、若い第一線の政治記者が、いかに自己破壊的な仕事をさせられているかを知ったことだった。

 しかし、その戸惑いと驚きに慣れるほど河野の首相首席秘書官生活は長くは続かなかった。就任から四か月半がすぎ、新しい年があけたばかりの九六年一月五日、村山は突然退陣を発表する。村山自身の言によれば「正月三が日のうららかな青空を見上げながら、来し方を振り返り、辞任を決意した」というのだが、国民は訳がわからず狐につままれた気分だった。側近の河野にも官房長官の野坂にも事前になんの相談もなく、最も狐につままれたのは河野だったかもしれない。
 後に村山はインタビューや自著で、実は九五年の「終戦談話」あたりで(つまり河野が首相首席秘書官に任命されたころ)すでに辞意を固めていたと告白している。村山は政治学者の岡野加穂留のインタビューにこう答えている。(岡野加穂留・藤本一美編著『村山政権とデモクラシーの危機』東信堂、二〇〇〇年一〇月)

 「その年はちょうど戦後五〇年の節目にあたりました。(略)アジアの国々に対する戦後処理の問題など、自民党単独内閣ではできなかった課題をこの連立政権では解決できるのではないかという気持ちで(首相を)やらしてもらおうと思った。それが終われば、私自身もそれ以上期待することもないと」

 つまり村山にとって最大のテーマである戦後処理という仕事をしおえたから退陣したというのだ。それはそのとおりかもしれない。しかし、河野をふくむ側近の間では、村山自身は語っていないが、もうひとつ裏があったとの解釈が共有されている。
 すなわち、クリントン訪日がきまっており、「受け皿」を社会党出自の村山内閣から自民嫡流の橋本内閣に譲っておいたほうがいいとの政治的配慮が働いたというものだ。しかし、それは村山とクリントンによる日米共同声明を危惧する自民党と外務省に配慮したというよりも、社会党内の融和に配慮したものだった。いくら日米安保をめぐる基本政策を社会党が変えたとはいえ、党大会でもめにもめて僅差による「容認」だった。党内にはわだかまりがまだふつふつとあった。ふつふつどころか、前述の「青票三人組」のひとり矢田部たち左派の一部が党を割って「新社会党」を立ち上げる準備が始まっていた。
 そんなわだかまりがある中に、クリントンと村山による日米安保強化の共同声明など出されたら、社会党は完全に空中分解するという危惧があった。そして、河野を含む村山周辺には、日本社会党結党いらいの「護憲」の本質をこれ以上汚すわけにゆかないという強い思いがあった。それが村山に退陣を決意させたというものだ。
 かくして河野の秘書生活はわずか五か月弱で終わる。しかし短期間ではあったが、河野にとっては実に意義深い五か月間であった。
(文中敬称略)
(ノンフィクション作家)







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