書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります
評者◆谷岡雅樹
若年暴力映画の現在とその意味
クローズZERO II ほか
三池崇史
No.2915 ・ 2009年04月25日




 今年二月末日、喧嘩の本家東映から『エリートヤンキー三郎』が封切られ、平成ヤンキー映画戦争の口火が切られた。三月にはダークホースの『ドロップ』が公開され大ヒット、四月は大本命の『クローズZEROⅡ』が登場。以後『喧嘩高校軍団』『ROOKIES』『ごくせん』『花のあすか組』と列島をヤンキー一色に染め上げていく。では、今なぜヤンチャ・ムービーが多数作られ人気も復活したのか。
 かつてヤンキー映画全盛の時代があった。八七年の事だ。“ツッパリ三連打”と題し『スケバン刑事』『ビーバップ・ハイスクール高校与太郎行進曲』『湘南爆走族』が連続して東映で封切られた。またこの年末から『仁義なき戦い』シリーズがビデオ化される。これが空前の大ヒット。販売本数よりもレンタルビデオ店での大爆発。しかも若い層によって。何が起きたのか。公開されて約十五年過ぎたこの作品を封切り当時小学校にも通っていなかった『ビーバップ』ファンの連中が群がった。いったい何を面白がったのか。これはヤクザをオタクたちが鑑賞するという現象の始まりだった。ゲームキャラクターのように、アイテムとして、フィギュアとして、アナクロな青春ドラマを見るように、茶化すことで(しかし内心は本気で)このヤクザドラマを好きになっていった。コミュニケーションを避けつつ、しかし映画の中に現れる泥沼の関係性、ギトギトの暴力で関係を深め、裏切り縺れ合う様を、必死の思いで顔で笑いながら心で泣いて観ていた。かつてマジになって観ていた上の世代とはまったく違う鑑賞の仕方。距離を測りながら嵌っていった。
 
 さらにこの年、それまで存在していたアイドルの親衛隊の分裂抗争が起きた。『スケバン刑事』の南野陽子と風間三姉妹、『ビーバップ』の杉浦幸、『湘南爆走族』の小沢なつきそれぞれの隊が連合脱退を表明。最も戦闘的な(実際に愚連隊と呼ばれた)隊ほど熱く行動するものだ。この騒動は危機というよりもむしろ、末期に差し掛かったアイドル・ツッパリ文化の終焉を物語っていた。『ビーバップ』も『湘爆』も原作は漫画である。連載開始はともに八三年。ヤクザが九二年三月施行の暴対法によって変質したように、暴走族がその行き場を失っていったのは、明らかに七八年十二月一日の道路交通法改正で共同危険行為の禁止規定が盛り込まれたことによる過剰な取り締まりが理由である。七九年から取り締まりが始まるも、暴対法のときのヤクザの抵抗と同じく、暴走族もまた、さらにグループと人数を増やす。
 この最後の暴走が静まっていくのが八七年だった。八〇年から登場したバンド、スターリンは、パンクを日本国内においてもメジャー化させていく。その中で八七年はインディーズが一つの役割を終え、ビジネスになっていくその実験場のような年であった。八七~八八年は、バブル経済の時代ではあるけれど、熱い魂が失われていく、ビジネスに乗りカネに換算されていく、そういう季節だったと言える。気合が冷めていき、オタク化が進む最後の熱い側の大爆発。それが喧嘩の映画であった。但し、茶化すことで成立したのである。この時代からの観客は、見栄と照れも含めて、対象化したかのようなスタンスで「上から目線」で映画も含めあらゆる物を見る。のちに宮藤官九郎のような作家が生まれ、また支持されるのも観客の「上から目線」を上手に刺激しクスグルからである。「笑える」「楽しめる」。いつも高いところから戴くのみで、自ら学んだり努力して未知の領域を獲得しようという意気込みなどはもはやない。そういう観客を甘やかし、かつ自らもその関係の成立のみで充足する作家が、以後は茶化しつくす。
 宮藤官九郎が脚本の『少年メリケンサック』。ここに登場するバンドは、パンクという言葉が八〇年代に入って既にいかに変質し、恥ずかしいものとなっていても、それをはるかに超えて冒涜するような面々であり、バンドという根幹が駄目であるにも拘らず映画はヒットし笑いも浸透した。これに比べて『フィッシュ・ストーリー』は、楽曲の三分間に徹底的にこだわり、とにかくしっかりと撮っている。このひたむきなバンドマンを演じたのは、ほかでもないオタクの代名詞『電車男』の伊藤淳史で、熱い肉食系に変貌していた。前回の連載で、落語家に感動した理由として「鍛錬の跡」について書いた。鍛錬や修行を、しごきや暴力としては受け取らないで欲しい。どうやったって落ちない汚れの鉄ナベをゴシゴシ磨かされるという話。いや、それは本当に落ちるかもしれない。コツもあるし、腕力も経験もいる。とにかく親方がやれば、天才がやれば、キチガイがやれば、落ちるかもしれない。自分にだって存在するその可能性を否定しては何の進歩もない。観客もプロなのだ。八百屋の人が観に来ていたとしたら八百屋のプロだ。何も映画を観る上での見巧者である必要はない。魚屋は魚屋のプロ。こういう人たちが、メリケンサックのバンドマンを見て「どっか違うな」。そう思って帰るのではないか。ニセモノには嫌味のラインがあるという。そこにプロは気づくのではないか。メリケンサックの中で、「これが売れると実績になり、次は好きなことが出来る」という台詞が出てくる。作者自身のことであろうか。これに対して「聞き飽きた」と吐くのは、『GOEMON』の中の石川五右衛門である。そんなことは聞き飽きた。今あちこちで日本映画が声を発している。
 
 横浜聡子という監督は確信犯として天然を仕掛けてくる。子供、田舎、原始社会を唐突に持ち込む。『ジャーマン+雨』のブスの主人公は、可愛らしい顔の友人にいきなり「分ったようなことを言うな」と。そして五月公開の新作『ウルトラミラクル・ラブストーリー』では、お金を無視した描き方、生活の大切さのほうが勝っていて、お金の出てくる余地がないというような濃密な人間関係を提出している。昨今の日本映画について(特に若い人の描く映画には)、お金について杜撰だという意見をよく聞く。どこで稼いでいるのか。親の遺産なのか。設定がはっきりしない、或いは説明不足だ、地に足が着いていない、と。しかしお金というものは、原始社会には存在しなかった。資本主義社会では愛や心も商品化されていく。もちろん労働力もだ。そこに抵抗する人間がいま現れてきた。『ウルトラ~』には、濃密な人間関係を迫る薄のろな農業青年が登場する。
 現代社会、特に都会から見ると彼はかなり変なのだが、舞台である青森のそのムラでは受け入れられている。これをおかしいと思う方がおかしいのかもしれない、ともまた思う。つまり馴れ合いもまた一つの人間関係であり、踏み越えてはならないとされる場所にズカズカと入ってくる行為も、ムラの中では成立し、ギスギスした関係を忘れさせてくれる。強姦されるかのごとき都市の女・町子。実は都市が悲鳴を上げているのである。社会にお金が登場することにより労働対価としての奴隷制が生まれた。効率主義は奴隷制だ。『ウルトラ~』の中に見られる関係性は都会から見るとおかしくとも、元々あった適度な関わりである。用もないのに回覧板とか、祭り、餅つき、建前、出初式などに普通に命をかける人々。それらを便利に役割として切り離していったのがお金である。個の成立以前はコミュニケーション自体がいらないものであった。人間が群がる。一人じゃないという感覚。原始的一体感。町子は男の死によって、変な奴でも居なくなれば愛しさを覚える。これは一体なんなのか。原初の「群れ」を炙り出す。どうやって稼いでいるかなど問題ではない。どんな人間でも生きていていい。友だちが必要だ。ベタベタと熱くガチンコで交わる友情。
 
 本気モードから白けていく元年だった八七年の前年、まだ中学1年生だったやべきょうすけは、ヤンキーデビューを果たす。Kというスーパーエリートヤンキーに椅子で3発叩き込み、Kとともに市川スペクター入りする。Kと2人で初めて入った映画館が『ビーバップ・ハイスクール』だった。暴走族が減った時代にも拘らず最後の花を咲かせていた。やべが初めてテレビに登場したのは「ニュースステーション」。八九年五月浦安市のボウリング場駐車場で「市川スペクター」と「葛南葛西グループ」乱闘。死者が出た。このとき始まったのが東映Vシネマで『ビーバップ』の面々がスター化していく。そして九一年末からヤンキー物が現れてくる。『ヤンキー愚連隊』『はいすくーる仁義』。東映でも九三年から『今日から俺は!』シリーズがスタート。九四年『横浜ばっくれ隊』『ツッパリハイスクール・武闘派高校伝』。九五年『湘南純愛組!』『ヤンキー烈風隊』そして九六年『ビーバップ・ハイスクール』『ろくでなしBLUES』に続いて三池崇史監督『喧嘩の花道』が誕生する。主演は矢部享祐。やべの本名だ。俳優となっていた。以後十四本作られる『岸和田少年愚連隊』もこのとき生まれた。『嗚呼!!花の応援団』『湘南爆走族』『新・男樹』『湘南武闘派高校伝』とシリーズはどんどん作られ、やべは九八年『明日を殴れ!』『ざけんなよ』『喧嘩愚連隊』とヤンチャムービーの頂点を極める。『クローズZERO』はやべが原作者とともに温め、『喧嘩の花道』の三池崇史で実現した。連綿と作られてきたヤンキーVシネマの浮上であり、マグマが噴出したものだ。水面下で燻り続けた二〇年の怨念が、オタクと茶化しの横行する地上のウソを暴くために出現した。
 『ドロップ』も『クローズZEROⅡ』も肝は、仲間を見捨てないという一点だ。本音で語り合い、セックスと暴力でしかないような濃厚なコミュニケーションを提示する。喧嘩という本気で人間と関わり交じり合う瞬間。不良は、良があって不良なのではない。良自体が不良ばかりの中で作られたものなのだ。お金同様にあとからデビューした。便利ではあるが元々必要なかった。その不要が牙を剥き出し始めたこの時代に、待てよと現れたのが喧嘩ムービーの復権であった。ワルというものが馬鹿にされ、オタクの想像上のアイテムとされ、現実にはヤンキーが消え去った今、熱く濃厚な人間関係を、資本主義社会の恩恵を受ける人間たちを苛立たせるかのように、スクリーンにぶち込まれてきた。危機だからだ。我が身も省みず命を懸けて友だちを助けに行くただそれだけの喧嘩。「良」が闊歩しすぎたこの時代、資本の潤滑油を引っ剥がしにやって来た。本来持っている人間の権利を奪い返しにやって来た。尊厳を守るために。だてにVシネマの暗黒二〇年があったわけではない。飼い馴らされない野郎ども。それが結実し始めた瞬間現場を今目撃している。
(Vシネ批評)







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 デザインの
ひきだし 36
(グラフィック社
編集部)
2位 昭和疾風録
(なべおさみ)
3位 この道
(古井由吉)
■青森■成田本店様調べ
1位 どう見える?
生きる跡アート
(高橋弘希)
2位 下町ロケット
ヤタガラス
(池井戸潤)
3位 大家さんと僕
(矢部太郎)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 一切なりゆき
(樹木希林)
2位 樹木希林120の遺言
(樹木希林)
3位 「日本国紀」の
副読本
(百田尚樹)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約