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評者◆蜂飼耳
文字の居留守
No.2878 ・ 2008年07月19日




 出来事や経験は、起こってすぐに書けることもあれば、しばらくの時間が経過してはじめて言葉になることもある。
 夜、机のところでじっとしていたら、にわかに、ひとつの駅が浮かんできた。数ヵ月前に降り立った無人駅。富山地方鉄道の「有峰口駅」だ。戦時中、親戚の家が疎開していた場所だと聞いて、その線に乗った際に、降りてみたのだった。
 無人駅というと、切符を回収する箱だけ置いてある、しおれきった雰囲気のところもあるけれど、その駅はちがった。まるで博物館のようだった。硝子越しに覗ける駅員室は、ついさっきまで人がいたかのような雰囲気を残していた。造花の入った花瓶。黄色いヘルメット。スタンプやノート。いろいろなものが薄明かりのなかで、息を潜めていた。
 空気が、ぎゅうと、押し固められていた。駅員の人はちょっと留守にしているだけ、すぐもどる、とでもいうような。居ないのに居る、というような。注意書きを読むと、確かに、居る日もときどきあるということだった。
 待合室の壁には鏡が掛かっていた。鏡だ、と思う。近づいてよく見ると、どこかの薬局が寄贈したものだとわかった。平らな面を覗く。居ない駅員さんが、鏡の静けさのなかへ、ふらっと現われそうだった。はじめて鏡を見た気がした。
 その駅は、いまは「有峰口駅」という。建物の上方にも、そう掲げられていた。ところが、そのすぐ上には「小」「驛」という二字が、ぼんやり見えていた。あいだの一字が消えている。というより、その字を書いた板は、落ちてしまったらしかった。その駅は、以前は「小見驛」といったのだと、後から知った。
「有峰口駅」の横書きは、いまの表記らしく左から右へ、だった。対し、「小」「驛」は昔の書き方で、右から左へ。ひとつの壁の上で、同じ場所を指すはずの駅名が、列車のようにすれちがっていた。落ち着かないけれど、面白い。ずっと、このままだといいのに。変えられなければいい、と「小」と「驛」のあいだに残る暗い染みを眺めて、思った。
 列車に乗ってから、あ、と気づいた。もしかすると、昔の駅名の一部は意図的に残されているのかもしれない。ここを訪ねて来る人のために。大事な記憶がわからなくならないように。それを見て、なつかしいと思う人のためにも。
 中央病院という病院の建物についていた「病院」の二文字が、ある日、白い板で隠されているのに気づいて、驚いたことがある。風で飛ばされてなくなったようには、見えなかった。わざわざ、おおい隠されたものと見えた。脇を通ると、がらんとして、人気はなかった。
 確かめると、病院は、知らないうちに閉鎖されていたのだった。理由は知らない。どうして、すべての文字を消さずに「病院」だけを消すのだろう。そのことで、くたびれた灰色の建物は余計に目立っていた。「中央」。それで何なのか。両目はどうしても、つづきを読もうとしてしまう。もしかすると、閉まっているとわからず急に飛びこむ人がいたら、困るからだろうか。
 人が、居たけれど、いまは居ない。そういう場所に引かれる。残された空気は溶け合い、混ざり合って、後もどりはできずに熟していく。役目を終えた場所は、人がいるうちはしっかりと閉じていた目を、開けている。黙って、おだやかに、周囲を眺めている。ざらり、ざらりと、見えない砂にうずもれていく。
 言葉は、なにも捕らえることができない。そうかもしれない、というすがたのしっぽを、踏みつけるだけだ。確信はいつも誤解に裏打ちされている。在るものが、在るままで、見えなくなっていく。
 欠けた言葉だけが、表わそうとするものを、押し出すように指し示す。遠くへ行こうとするわけではなくても、いま居る場所から、離されていく。引き返さない駅名を、思い描く。







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