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文学
この本の中にこそ「本当」に生きた東京があった
書籍・作品名 : 漱石の地図帳
著者・制作者名 : 中島国彦 大修館書店 2018.6  
すすむA   58才   男性   





漱石ファンならばぜひとも手元に置きたい一冊である。地図とともにその物語の神髄までを見極めた案内書は滅多にあるものではない。

著者が繰り返し述べるのは「漱石作品の具体的な地名を見据えつつ、そうした次元を超えた現実の背後から姿を現す、空白の空間の存在に改めて注意を向けなければならない」ということ。さらには「名付けることで、ものは生きてくる……〚坊ちゃん〛では、実際の松山を描いたのではなく、描かれることで松山が生きた地名となっているのである」と言い切る。事実〚坊ちゃん〛に松山の地名は一度も出てこない。

だからわれわれは「漱石作品の地理への跡づけが〚追憶〛からまる感傷的な文学散歩になってはならないことも大切だ。実際の地理的背景に密着しつつ、絶えず大きな客観的な視野から見直す気持ちも必要である」と説く。「漱石文学散歩」といった類書と違うのはこの視点だ。

とはいえ著者がテーマとするのは東京である。漱石作品では「作中人物は、何かに追われるように、いつも東京を動き回る。山の手の起伏に富んだ地形は、人物の行動を描くのにぴったりしたものとして、浮かびあがるのである」。確かに漱石の舞台は山の手で下町はほとんどない。その山の手の特徴とは何か。「坂」である。気がつかなかった。

漱石文学では、数多くの坂はある意味「異界との境界」として象徴づけられているという。言われてみれば東京都心は台地と谷の組み合わせである。台地といっても高低差は「せいぜい二十メートルほど」で、今では意識すらされないが、1909(明治42)年当時の市民の近距離の移動手段は徒歩か人力車であったから坂は目立った。以下作者はこのテーマに沿って、東京を描いた数々の漱石作品を坂とともに案内してゆく。118-119頁の地図が読み進めるに非常に役立つ。

例えば〚それから〛では代助と美千代の度重なる往復が印象的だ。

本書によれば代助の住居は、牛込台地の東端に当たる肴町の借家。美千代が住んでいるのは、江戸川(神田川)を挟んだ小石川台地の伝通院の西側あたりで、両台地の間には神楽坂、安藤坂、金剛寺坂等がある。その他代助は実家のある青山からの帰りに四谷台地の津の守坂を下りる。

平岡常次郎と美千代夫妻の住む借家は市電の延長上にある新興住宅地に資金回収の早さだけを目的に作られた住宅で「もっとも粗悪な見苦しき構え」である。同じ借家でも台地によって格式が違う。小石川の借家はだんだん荒んでゆく常次郎の醜さを象徴する。

実世界に身を汚したくないと構える「高等遊民」の代助が、美千代を平岡に嫁がせた責任と心配から、かつての恋心を蘇らせ、しばしば美千代を訪れることになるのだが、不安が昂じると安藤坂からでなく、急だが距離を稼げる金剛寺坂を上がる。登坂の違いに「代助の心情の様相」が示されていると著者は言う。美千代も神楽坂を上る言い訳に「本郷の方は……一割か二割物が高いというので」、と坂を使う。

14章、「姉さん、私はすいた女があるんです」と低い声で言い切って、代助は実家を出る。父親の事業にも関わるらしい今回の縁談を断れば、父子離縁は免れないだろう。「角守を下りた時、日は暮れかかった」という一文を読み飛ばしてはならないと著者は言う。美千代に対する「気持ちが坂を下りる途中で加速度的に強まる点」と、「方向の定かでない夜の闇の中で、その気持ちをあらわさなければならない点」が、津の上坂に込められているというのである。ついでに「遠くの小石川の森に数点の火影を認めた」というところは当時でも実際に見えるはずはなく、代助の憧れが見せた幻影であろうとする。

確かに坂を下りる時には速度がつく。それを美千代に対する「気持ちが加速度的に強まる」と解釈した説明は卓見だ。それでは坂を上がる時はどうか........それから代助は安藤坂を上がって平岡の家に行き、板塀から中を窺う。灯がともり、夫婦の声が聞こえる。立ち去るしかない。「しばらくはどこをどう歩いているか夢中であった」。私の解釈では、坂の上りには不安と絶望が付随する。それに抗する愛の強さがなければならないが、代助はそこまで強くなれない。彼は二度と小石川への坂は上らない。代わりに美千代を自宅に招く。それから後は美千代の強さに引きずられるところがある。筋書き通りに代助は縁を切られ、美千代も病に伏してしまうが、常次郎にさえぎられて会うこともできず、物語は未決のままで終わる。

著者は言う。「〚それから〛の世界には、坂と台地がいろいろな位相で見事に活用されていることに気がつく」、しかし、「〚それから〛という作品はその極点で、こうした地理的背景を超えている」のだと。その通りだ。だが私にはこの本の中にこそ本当の東京が存在すると感じる。






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