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文学
「闇」と「救い」の先に見る人間像
書籍・作品名 : 弥勒の月
著者・制作者名 : あさのあつこ  
AS   19才   女性  





 闇を見たことがあるか。それも、人間の奥底に潜んでいる闇だ。人は闇恐れ、抗おうとする。その一方で、闇に惹かれ、堕ちていく―そこに救いはあるのか。

 このような問いかけとともに読者の心にざくりと斬り込み、且つ生とは、死とは、そして人間とは何であるかを描いたのが、本書『弥勒の月』の著者・あさのあつこである。1954年、岡山県生まれ。『ほたる館物語』でデビュー。『バッテリー』で野間児童文芸賞、『バッテリーⅡ』で日本児童文学者協会賞、『バッテリー』全六巻で小学館児童出版文化賞を受賞。その人間に対する鋭い観察力と深い洞察で十代の少年達の心模様を鮮やかに描写し、児童文学を中心に幅広い世代の支持を得る。そんな彼女にとって、本書のような時代小説は初の試みとなる。

 物語は、南本所石原町の履物問屋、稲垣屋惣助が女遊びの帰りに竪川で若い女の身投げを目撃する場面から始まる。女は森下町の小間物屋遠野屋の若おかみ、おりんであった。亭主の遠野屋清之介とともに幸福に暮らしていたはずのおりんの死。清之介は単なる身投げではないと考えるのでぜひとも調べ直してほしいと、北定町廻り同心の木暮信次郎と、その岡っ引の伊佐治に願い出る。商人にしては肝が据わり眼光鋭く、妻の死にも冷静な態度の清之介。不審を覚えた信次郎と伊佐治は身辺を洗い始めるが、その間に殺人事件が立て続けに起こる。誰が、何のために。おりんとの関係はあるのか。事態は二転三転ともつれ、闇は男達を翻弄し、物語は意外な結末を迎える。

 本書のテーマは「闇」。闇は風景に、あるいは人の中に溶け込み、影を落とす。光があるところに闇はできるし、夜は必ずやってくる。目の前で笑っている人間も、一皮剥けば底無しの闇を抱えている。日常のふとした瞬間にそれを見つける。闇は確かにそこにある。とりわけ人の心の闇には目を背けたくなるものがある。狂気、虚無、絶望、不安。名付けがたい闇が人の内にうごめく。しかし、闇があればまた、光もあるのだ。伊佐治はかつて親を亡くし、家を無くし、人の世に絶望し、獣のように生きた。あともう一歩で奈落の底に落ちる。あと一足踏み出したら、まっとうな世界に戻れない。そのぎりぎりで伊佐治を引き戻したのが妻のおふじだった。

 「世の中、捨てたもんじゃねえんだ。/十八のおふじの体に埋もれながら、刻み込んだ想いは今も褪せていない。伊佐治の内に鮮やかに在る。」(本文より)

 闇と救い。著者は大胆に、そして繊細に読者に語りかける。

 さて、あさのあつこの作品の魅力の一つにその登場人物が挙げられる。本書も例外ではない。偏屈でぶしつけだが頭の切れる信次郎。そんな信次郎に疑問を抱きながらも離れられずにいる、まっとうを絵に描いた伊佐治。研ぎ澄まされた刀のような心の奥深くで、静かに怒りと悲しみを積もらせる清之介。他にも下っ引の源蔵や伊佐治の妻おふじ、稲垣屋惣助など、主役から脇役までが生き生きとして人間くさい。生きた彼らの言葉には時にどきりとさえする。じっくりと描かれるそれぞれの生きる姿に読者は思わず唸り、自身を振り返ることだろう。

 もう一つ欠かせないのが物語に色を添える風景の描写だ。こちらもあさのあつこは丁寧に描き出す。

 「風が舞った。光が煌めく。それは、目の前に立つ娘の全身を照らし、輝かせた。風に運ばれた桜の花びらが一枚、黒髪を飾った。」(本文より)

 清之介とおりんの出会いの場面である。それまで作品全体を包んでいた冷たくもの悲しい空気と一変して、暖かな春の日の、満開の桜の下の初々しい二人が目に浮かぶ。その様子はこう結ばれ、物語は幕を閉じる。

 「あまやかな風が吹き過ぎる。光と青葉の季節が始まろうとしていた。」(本文より)

 人は誰しも闇を抱えて生きている。消せない傷を抱え、それでも生きねばならないのだ。当たり前ゆえに難しい。しかし、それが人間だ。本書には続編がある。全てを赦す「『弥勒』の月」に続く「『夜叉』桜」である。闇と救いの先に信次郎が、伊佐治が、そして清之介が見たものは何か。続きを想像しながら読むのもまたおもしろい。






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